【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
マリブの海から吹き込む湿った風が、実験室のわずかな隙間を抜けて私の頬を撫でる。しかし、私の意識は眼前の不格好な装置にのみ注がれていた。ヒューズ研究所の片隅、窓の外にはカリフォルニアの眩い陽光が溢れているというのに、この部屋の中は、まるで深海の底のように沈黙と緊張に支配されている。
机の上に鎮座しているのは、長さわずか数センチメートルの合成ルビーの円柱だ。端面には入念に銀が蒸着され、鏡のように磨き上げられている。その周囲を、螺旋状のキセノン・フラッシュランプが、獲物を狙う蛇のように執拗に巻き付いている。この小さな結晶の中に、宇宙の開闢以来、人類が目にしたことのない「光」が眠っている。そう信じているのは、今や世界中で私一人かもしれない。
ベル研究所やコロンビア大学の権威たちは、ルビーを用いたレーザーの発振など不可能だと、論文や学会の場で公然と断じてきた。励起状態の寿命が短すぎる、効率が悪すぎる。彼らはもっと巨大で、もっと複雑なガスや特殊な混合物を用いた装置に血道を上げている。だが、私はこの深紅の結晶が持つ静かな可能性を信じていた。物理学の方言で語るなら、それは三準位系における反転分布の形成だ。しかし、私の直感が囁いているのは、もっと根源的な「秩序」の誕生だった。
「準備はいいか、アーウィン」
助手のアブラハムに声をかける。彼は無言で頷き、電源装置のスイッチを入れた。コンデンサが電荷を蓄えていく、低く、重苦しい唸り声が室内に響き渡る。私の指先は、シャッターのトリガーに置かれている。もし失敗すれば、この数ヶ月間の苦闘は、ただの「高価なルビーのランプ」を作っただけの笑い話に終わるだろう。
心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響く。私は目を閉じ、ルビーの中にあるクロムイオンの群れを想像した。外側から注がれる激しい光の洪水によって、電子たちが一斉に高いエネルギー階梯へと飛び跳ねる。そして、一粒の光子がきっかけとなり、雪崩のように、整列した光の軍勢が鏡の間を往復し、増幅され、究極の一点へと収束していく。
指先に力を込める。
閃光が走った。
キセノン管が放った強烈な白い光が、遮光ゴーグルの脇から漏れて網膜を焼く。同時に、オシロスコープの緑色の走査線が、信じがたい跳躍を見せた。
「……出たか?」
アーウィンの声が震えている。私は無言でオシロスコープの画面を凝視した。そこには、ただの自然放出光では決して描き出せない、鋭く、そそり立つようなピークが刻まれていた。光の波長が揃い、位相が完璧に一致した証拠だ。
私たちは、その「光」そのものを肉眼で見たわけではない。それはあまりにも一瞬の出来事だったからだ。しかし、検出器が捉えたそのパルスは、確かにルビーの深淵から放たれたコヒーレントな叫びだった。
私は震える手で装置の傍らに歩み寄り、まだ熱を帯びている円筒に触れた。そこには確かに、新しい物理の脈動が宿っていた。これまで人類が手にしてきた光――太陽、焚き火、電球――それらはすべて、狂ったように四方八方へ飛び散る、混沌とした光の屑に過ぎなかった。だが今、私たちは初めて、光を一本の細い糸のように紡ぎ、軍隊のように整列させ、理性の制御下に置くことに成功したのだ。
窓の外では、何も知らない人々が午後の海岸線を歩いているだろう。だが、この小さな部屋の中で、世界のあり方は永遠に変わってしまった。この真紅の閃光は、通信の形を変え、医療のメスとなり、あるいは宇宙の距離を測る物差しとなるだろう。いや、それ以上の、今は想像もつかないような未来を、この光が切り拓いていくはずだ。
私は手帳を取り出し、今日の日付を記した。1960年5月16日。
万年筆の先から滴るインクが、なぜかルビーの色に似て見えた。特別な言葉はいらない。ただ事実だけを記せばいい。
「ルビー放射によるコヒーレント光、初の発振に成功」
燃え上がるような達成感の後にやってきたのは、深い静寂だった。私たちはしばらくの間、言葉を交わすこともなく、ただ夕刻の影が伸びていく実験室の中で、魔法が解けたばかりの不格好な装置を見つめ続けていた。海からの風が再び吹き込み、カーテンを揺らした。それは、新しい時代の幕開けを告げる合図のように感じられた。
1960年5月16日、セオドア・メイマンが世界初のレーザー発振に成功。カリフォルニア州マリブのヒューズ研究所にて、合成ルビーを用いたレーザー装置(ルビーレーザー)により、可視光の増幅およびコヒーレント光の放出を実証した出来事。