【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
ワシントン連邦議会議事堂、地下の薄暗い一室。石造りの壁は湿気を孕み、微かにカビと埃の匂いが漂っている。しかし、今この部屋に満ちているのは、不快な沈黙ではない。それは、産声を上げる直前の赤子を待つような、ひりつくような緊張感だ。
私の目の前には、数年前までは誰もが見向きもしなかった奇怪な機械が鎮座している。マホガニーの台座の上に据えられた、真鍮の歯車と電磁石の塊。そして、そこから這い出し、窓を抜けてはるかボルチモアへと続く細い一本の銅線。人々はこの鉄の糸を「狂気の沙汰」と笑い、大統領ですらこの装置がもたらす未来を疑っていた。だが、サミュエル・モールスという男だけは違った。
モールス氏は、今日という日を迎えるために、どれほどの屈辱と困窮を耐え忍んできたことだろう。画家としての名声を捨て、発明家としての孤独な戦いに身を投じ、議会の承認を求めて幾度も冷笑を浴びせられた。彼の指先は、実験の過程でついた煤とインクで黒ずんでいるが、その眼差しには確固たる意志の炎が宿っている。
午前八時四十五分。部屋にはアニー・エルズワース嬢も同席している。彼女の父親は特許局長官であり、モールス氏に予算承認の報をいち早く届けた恩人だ。今日、最初の一歩となる言葉を選ぶ権利は、彼女に与えられていた。
モールス氏が、重厚な電鍵(キー)に指をかけた。室内の空気は凍りつき、観衆の息遣いすら消えた。ただ、遠くで馬車の轍が鳴らす音が聞こえる。
「準備はよろしいですか、アルフレッド」
彼は呟くように言った。四十マイル先、ボルチモアのプラット・ストリート駅で待機している共同経営者、アルフレッド・ヴェイルに向けて。届くはずのない声だが、彼には鉄の糸を通じて相棒の息遣いが見えているのだろう。
モールス氏の指が、決然と電鍵を叩いた。
コン。コン、コン。コン――。
真鍮の部品がぶつかり合い、乾いた金属音が室内に響く。それは音楽でもなければ、言葉でもない。単なる不連続な音の断片だ。しかし、その一打一打が電気の火花となり、見えない速さで、野を越え、川を渡り、森を抜けて、瞬く間にボルチモアへと駆け抜けていく。
アニー嬢が選んだ言葉は、聖書の一節だった。
「WHAT HATH GOD WROUGHT(神のなせる業)」
私がその文字を頭の中でなぞる間も、モールス氏の指は魔法のように動き続けた。電鍵が叩かれるたび、電磁石が紙テープを押し下げ、そこには点(ドット)と線(ダッシュ)の列が刻まれていく。これは暗号ではない。重力と距離という、人類を数千年にわたって縛り付けてきた物理的な呪縛を、一瞬にして切り裂くための新たな言語なのだ。
数分の沈黙が流れた。誰もが息を止め、窓の外の景色を見つめていた。まるで、そこにある空気が震えだすのを期待するかのように。
やがて、装置が独りでに動き出した。
カチ、カチ、カチ……。
ボルチモアからの返信だ。機械が吐き出す細長い紙テープを、モールス氏は震える手で受け取った。そこには、彼が送信したのと全く同じ、点と線の配列が並んでいた。
「……届いた。完璧だ」
彼の声は、掠れていた。その瞬間、部屋を埋め尽くしていた緊張が、地鳴りのような歓声へと変わった。人々は互いに手を取り合い、信じがたい奇跡を目撃した驚愕に震えていた。
私は、窓際に寄り、五月の眩しい陽光を浴びるワシントンの街並みを見下ろした。馬車が行き交い、人々が歩き、手紙を携えた郵便配達員が汗を流している。しかし、今日この瞬間から、世界は決定的に作り替えられてしまったのだ。これまで何日もかけて運ばれていた情報は、今や稲妻と同じ速度で大陸を駆け巡る。思考は肉体を置き去りにし、海を越え、山を越える。
「神のなせる業」
確かにそうかもしれない。だが、その神の業をこの地上に具現化させたのは、人間の飽くなき好奇心と、不屈の情熱に他ならない。
モールス氏は、喧騒の中で一人、静かに装置を撫でていた。その横顔は、勝利者の高揚というよりも、大きな使命を終えた者の安堵に満ちていた。一本の鉄の糸。それはただの金属の線ではなく、人類の神経系が世界中に張り巡らされるための、最初の一節だったのだ。
参考にした出来事
1844年5月24日、サミュエル・モールスがワシントンD.C.の連邦議会議事堂からボルチモアに向けて、世界初となる公開電信実験を行った。送信されたメッセージは、民数記23章23節から引用された「What hath God wrought(神のなせる業)」であり、これにより長距離通信の歴史が幕を開けた。