【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
湿り気を帯びた朝の空気が、アントウェルペンの運河から這い上がり、仕事場の石壁を冷たく撫でている。窓の外からは、スヘルデ川に艀が接岸する鈍い音と、荷揚げ人足たちの粗野な叫び声が聞こえてくるが、私の意識はその喧騒を通り抜け、目の前の机の上に置かれた一冊の束へと注がれていた。
ようやく、この日が来た。
指先に触れる牛皮の装丁は、まだ新しく、獣の脂の匂いと、刷り上がったばかりのインクの芳香を放っている。表紙をめくれば、そこに広がるのは単なる紙の束ではない。それは神が創りたまい、人間が何世紀もかけてその端をかじり取ってきた、この世界の全容である。私はこれを「世界の舞台(テアトルム・オルビス・テラルム)」と名付けた。劇場の幕が上がるように、人々はこの書物を開くことで、居ながらにして異国の海岸線を旅し、香料諸島の湿った風を感じることができるのだ。
思えば、長い年月であった。
地理学者を自称してはいても、私は本質的に蒐集家であり、地図の商人であった。かつて私たちが扱っていた地図といえば、大きさも縮尺もばらばらで、あるものは巨大な壁掛け用、あるものは雑な手書きの航海図に過ぎなかった。学識ある友人たちが、それらを整理しようとして挫折する姿を何度も見てきた。地図とは、あまりに巨大で、あまりに不揃いな知識の断片に過ぎなかったのだ。
それをひとつの等しい判型に収め、一冊の書物として綴じる。この単純な、しかし途方もない労力を要する構想を支えてくれたのは、親愛なるヘラルドゥス・メルカトルの励ましであった。彼は「君には、世界を秩序立てる才能がある」と言ってくれた。私は彼の言葉を信じ、各地から寄せられる新旧の地図を精査し、矛盾を削ぎ落とし、銅版彫刻師たちの神経をすり減らすような細かな作業を監督し続けてきた。
今日の記念すべき朝、製本を終えたばかりの初版を手にとり、ページをめくる。
一頁目には、精緻な線で描かれた「世界の全図」がある。アフリカの南端から、いまだ霧に包まれた南方大陸(テラ・アウストラリス)の輪郭。大西洋を越えた先にある、スペインの富の源泉たる新大陸。かつてはプトレマイオスの古い智慧に依存していた空白地帯が、今は勇気ある航海者たちの報告によって、鮮やかな線で埋め尽くされている。
インクの黒い線は、単なる地理の境界ではない。それは人間の好奇心の足跡であり、征服の歴史であり、神の被造物に対する理解の到達点である。彫刻刀で刻まれた緻密なハッチング、海面に描かれた架空の怪魚や豪華な帆船の意匠。それらひとつひとつが、この時代が持つ熱量を内包している。
私は指先で、東方の果てにある黄金の島、ジパングのあたりを撫でてみた。そこにはまだ想像の域を出ない不確かな形しか与えられていないが、いつの日か、私のこの「舞台」は、より正確な、より精緻な舞台装置へと改められていくことだろう。この書物は完成形ではない。絶え間なく更新され、進化し続ける知の有機体なのだ。
印刷所の親方、ジリス・コッペンス・デ・ディエストが、インクに汚れた手を拭いながら入ってきた。
「アブラハム、注文が止まらないぞ。フッガー家の代理人も、アウクスブルクの商人たちも、皆この『世界』を欲しがっている」
私は静かに頷き、最後のページを閉じた。
革の表紙が重なり、空気が押し出される音がした。それは、中世という古い地図が閉じられ、近世という新たな視座が確立された音のようにも聞こえた。
今日、1570年6月1日。
世界は、ようやく自らの姿をひとつの書物の中に発見した。
これからの旅人は、羅針盤とともに、この私の「舞台」を手に海へと漕ぎ出すだろう。あるいは、書斎のランプの下で、地球の裏側に思いを馳せる賢者たちの友となるだろう。
窓を開けると、雲の切れ間から初夏の日差しが差し込み、作業机の上の「世界」を黄金色に照らした。アントウェルペンの港からは、今日もまた未知の海域へと向かう船が帆を上げている。私の仕事は終わった。いや、世界を記述するという、終わりのない旅がここから始まるのだ。
参考にした出来事
1570年6月1日、フランドル(現在のベルギー)の地理学者アブラハム・オルテリウスが、アントウェルペンにて、史上初の近代的地図集「テアトルム・オルビス・テラルム(世界の舞台)」を刊行しました。それまで不揃いだった地図を同じサイズに統一して一冊にまとめたこの功績により、オルテリウスは「近代地図学の祖」と呼ばれています。