【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
ハリウッドの湿り気を帯びた夜気が、劇場の重厚な扉を抜けて、私のシャツの襟元にまとわりつく。一九三四年六月九日。今日のカセ・サークル・シアターの喧騒は、いつにも増して熱を帯びているように感じられた。映写機の回る乾いた音と、客席を満たすポップコーンの焦げた甘い匂い。そのすべてが、これから始まる数分間の魔法への序奏だった。
私は劇場の片隅に身を置き、手帳を膝に乗せていた。ウォルトのスタジオで働く一介の若手アニメーターとして、自分たちが心血を注いだ線が、色となって、光となって観客の瞳に飛び込む瞬間を、どうしてもこの目で見届けたかったのだ。
スクリーンに「シリー・シンフォニー」の文字が踊り、新作『賢いメンドリ』のタイトルが浮かび上がる。三色法テクニカラーによる色彩は、もはや単なる映画の域を超え、生命そのものの輝きを放っていた。トウモロコシの鮮やかな黄色、空の深い青。だが、観客の目を釘付けにしたのは、背景の美しさではなかった。
彼が現れた瞬間だ。
白い羽毛に覆われた丸っこい体。青い水兵服に、同じ色の帽子を斜めに被った、いかにも不遜そうなアヒル。彼が、手近なボートの上で躍り上がったとき、劇場の空気が一変した。
それまでのミッキーマウスが体現していたのは、無垢な正義感であり、快活な冒険心だった。しかし、このドナルド・ダックと名付けられた新顔は、どうだろうか。メンドリから農作業の手伝いを頼まれるや否や、彼は大仰に腹を抱え、仮病を使って労働を逃れようとした。その動きの一つ一つに、人間の持つ狡猾さと、どこか憎めない怠慢さが凝縮されていた。
そして、声だ。クラレンス・ナッシュが吹き込んだあの声がスピーカーから響いた瞬間、私の隣にいた老婦人は、驚きのあまりハンカチで口を覆った。怒鳴っているのか、笑っているのか、それとも単に喚いているのか。何を言っているのかは判然としないが、その感情の昂ぶりだけは、劇場の隅々にまでダイレクトに突き刺さってくる。それは、洗練された都会的な笑いではなく、もっと泥臭く、本能を揺さぶるような爆笑の渦を巻き起こした。
スクリーンの中で、アヒルはメンドリの賢明な教訓に鼻を鳴らし、最後には自らの怠慢の結果としてトウモロコシにありつけず、ひまし油を飲む羽目になる。その不機嫌そうな顔。怒りに震える短い尾羽。彼が地団駄を踏むたびに、観客は腹を抱えて笑い転げた。
上映が終わった後、薄暗い劇場内に明かりが灯っても、人々の興奮は冷めやらなかった。誰もが、あの奇妙な声のアヒルの真似をしようとして、失敗しては笑い合っている。
私はペンを握る指の震えを抑えることができなかった。ミッキーという完璧なスターの傍らに、これほどまでに人間臭い、欠点だらけの「鏡」が置かれたのだ。ドナルド・ダック。彼は単なる脇役として生まれたのではない。彼は、ミッキーが背負いきれなかった人間の毒、怒り、そして愛すべき愚かさをすべて引き受けるために、この世に産み落とされたのだ。
スタジオに戻れば、また過酷な作画の毎日が始まる。しかし、今夜の観客の笑顔を思い出すだけで、鉛筆を持つ手は羽のように軽くなるだろう。ウォルトの言う「誰もが持っている子供心」という言葉の裏側に、あのアヒルのような「毒のある本音」が加わったとき、私たちの物語は真に完成するのかもしれない。
ハリウッドの夜空に浮かぶ月は、あのアヒルの尻のようになめらかで、少しばかり滑稽に見えた。明日からは、あの青い水兵服をもっと生き生きと動かすための、新しい線を探さなければならない。一九三四年、六月九日。この日は、アニメーションの歴史が、単なるおとぎ話から「人間」を描く芸術へと脱皮した記念碑的な一日として、私の記憶に深く刻まれることだろう。
参考にした出来事:1934年6月9日、ウォルト・ディズニー・プロダクション製作の短編アニメーション映画『賢いメンドリ』(The Wise Little Hen)が公開され、後にミッキーマウスの最大のライバルであり親友となる人気キャラクター、ドナルド・ダックが初登場した。