【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
ヘンリー・オン・テムズの朝は、この季節にしては酷く汗ばむような、熱を孕んだ湿り気に包まれていた。宿の窓を開けると、早くも街道には馬車の車輪が軋む音と、興奮を隠しきれない群衆の喧騒が満ちている。ロンドンから、あるいは両大学の膝元から駆けつけた見物人たちの数は、数千人を優に超えているだろう。この静かな川辺の町が、これほどまでの熱狂に浮かされたことは、かつてなかったに違いない。
私は、愛用の麻のシャツに腕を通しながら、掌の肉刺をそっと撫でた。数週間にわたる猛烈な修練の証である。皮膚は硬く剥がれ、節々は軋む。しかし、この痛みこそが、私がオックスフォードの代表として選ばれた誇りそのものであった。鏡の中の自分は、自分でも驚くほど鋭い眼光を放っている。
正午を過ぎる頃、川辺は人で埋め尽くされた。対戦相手であるケンブリッジの連中は、白いシャツにピンク色のリボンを誇らしげに結び、自信に満ちた足取りで艇へと向かっていく。我々オックスフォードの乗組員は、チャールズ・ワーズワースの号令のもと、濃紺の縁取りがなされたシャツを身に纏い、静かに、しかし確かな闘志を胸に秘めて水際へと進んだ。
我々の愛艇は、重厚なオーク材で作られた八人乗り。現代の洗練された造船技術からすれば無骨な塊に見えるかもしれないが、水面に浮かぶその姿は、私にはどんな戦列艦よりも雄々しく見えた。艇に乗り込み、座席に腰を下ろすと、テムズの冷たい水が船底越しに伝わってくる。
「準備はいいか」
整調の低い声が響く。私は八フィートを超える重い橈を握りしめた。木肌の感触が、吸い付くように掌に馴染む。
対岸に並ぶケンブリッジの艇との距離はわずか。彼らの荒い呼吸まで聞こえてきそうだ。審判の合図を待つ数秒間、周囲の喧騒は奇妙に遠のき、耳元で鳴り響くのは自分の心臓の鼓動と、川面を撫でる風の音だけになった。
銃声が轟いた。
その瞬間、静寂は粉砕された。全身の筋肉を爆発させ、橈を水中に突き刺す。水面が激しく波立ち、艇が生き物のように前へと躍り出た。
「イチ、ニ! イチ、ニ!」
舵手の鋭い掛け声が鼓膜を打つ。背中にかかる重圧は凄まじく、一度の掻きごとに肺が焼けるような熱を帯びる。視界の端で、ケンブリッジのピンクのリボンが後方へと流れていくのが見えた。序盤から我々の艇は加速し、水飛沫を跳ね上げながらテムズの奔流を切り裂いていく。
ヘンリーの橋の上、そして川の両岸からは、割れんばかりの歓声が降り注いでいた。だが、私にはそれに応える余裕など微塵もない。ただ前の男の背中を見つめ、リズムを乱さず、限界まで引き絞った力を木製の橈に叩きつける。
汗が目に入り、視界が滲む。喉の奥は鉄の味がした。それでも、この一漕ぎが、オックスフォードの名誉を、我々の絆を証明するのだという確信が、折れそうな心を支えていた。
中盤を過ぎたあたりで、ケンブリッジとの差は決定的なものとなった。彼らの動きに焦りが見え、櫂捌きが乱れている。対して我々は、研ぎ澄まされた一つの機械のように、滑らかに、かつ力強く進み続けた。
ゴールラインを越えた瞬間、全身の力が抜け、私は橈を握ったまま仰向けに倒れ込んだ。肺が狂ったように酸素を求め、心臓が肋骨を突き破らんばかりに打ち鳴らされている。
「勝ったぞ!」
誰かの叫び声が聞こえた。続いて、岸辺から地鳴りのような「ダークブルー」への喝采が沸き起こる。
勝利の味は、期待していたほど甘美なものではなかった。ただ、やり遂げたという深い安堵と、この二マイル余りの水路に全てを出し切ったという、空虚に近い充足感があった。水面に浮かぶ我々の艇は、初夏の陽光を浴びて、誇らしげに輝いていた。
宿に戻り、この日記を記している今も、指先は微かに震えている。
今日、1829年6月10日。このヘンリーの地で行われた若者たちの無謀とも言える競漕が、歴史にどのような足跡を残すのか、私には分からない。しかし、あの水飛沫の中で感じた連帯と、極限の苦しみの中で見つけた一筋の誇りは、生涯忘れることはないだろう。
ケンブリッジの連中も、きっと同じ思いで今日という日を噛み締めているに違いない。いつかまた、この川で彼らと相まみえる日が来ることを、私は密かに願っている。
参考にした出来事:1829年6月10日、第1回ザ・ボート・レース(オックスフォード大学対ケンブリッジ大学による対抗漕艇試合)が、ロンドン近郊のヘンリー・オン・テムズにて開催された。オックスフォード大学が圧倒的な勝利を収め、これが現在まで続く伝統的なスポーツイベントの起源となった。