短編小説

灼熱のドレスコード

2026年1月23日 by Satoru
学び

概要

イブサンローラン、イブサンローレン、どちらが正しいカタカナ表記か

男は会員制ブティックの重厚な扉の前で、最後の選択を迫られていた。 入店には、このブランドの創始者の名を正しく告げなければならない。

男の頭の中で、二つの響きがせめぎ合う。 「サン・ローレン」か、「サン・ローラン」か。

男は推理した。「ローレン」という響きには、どこか健康的で、広大な芝生で馬に乗るようなアメリカ的な明るさがある。一方「ローラン」には、パリの湿った石畳と、紫煙にくゆらせた哲学的なアンニュイが漂う。 この店が求めているのは、明らかに後者の「美学」だ。

男は自信を持って、鼻に抜けるような流暢なフランス語で告げた。 「サン・ローラン」

扉が静かに開いた。 男は安堵し、優雅に足を踏み入れた。しかし、そこには華やかなショーケースも、最新のタキシードもなかった。あるのは、部屋の中央に鎮座する、真っ赤に熱せられた巨大な鉄格子だけだった。

「お待ちしておりました」 黒服の支配人が、うやうやしく男の手を取った。 「え? 服は? なぜこんなに暑いんだ」 「貴方が望まれたのでしょう? 聖ローラン(ラウレンティウス)を」

支配人は鉄格子を指し示した。 「『ローレン』と発音していれば、ただの言葉足らずな観光客として、別館のポロシャツ売り場へ案内いたしました。しかし貴方は、正しく『ローラン』と発音された。それは鉄格子の上で火あぶりにされ殉教した、我らが守護聖人の名です」

男は後ずさりしたが、背後の扉はもう開かない。 支配人は熱したコテを手に、慈愛に満ちた目で微笑んだ。

「本物の名前を呼ぶ者には、本物の『痛み』のみが与えられるのです」