【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
湿り気を帯びたベルリンの夜気が、ウラニア天文台の開かれたドームから滑り込んでくる。八月半ばというのに、この数日の暑気は肌に纏わりつき、望遠鏡の冷ややかな真鍮の感触さえもどこか遠く感じられる。時計仕掛けの駆動装置が刻む規則正しい、それでいて無機質な金属音だけが、静寂を支配するこの円筒形の空間に命を吹き込んでいるかのようだ。
私は数刻前から、天体写真用の二重屈折望遠鏡の接眼レンズに齧り付いている。狙いは小惑星「エウニケ」だ。漆黒の天鵞絨に散らばる砂粒のような星々の中から、目的の微光を探し出す作業は、砂漠で一粒の真珠を探すに等しい。だが、私の指先が触れているのは単なる硝子や金属ではない。それは、宇宙という無限の深淵に手を伸ばすための、唯一の糸口なのだ。
長時間露光のためにシャッターを開放している間、私は息を潜め、ただ時間が過ぎるのを待つ。現像液の匂いが染み付いたこの指先は、暗室での孤独な作業を既に予感して震えている。星々は沈黙を守り、ただ地上にある我々の営みを冷ややかに見下ろしている。かつて先人たちが神々の居所と信じたあの高みに、我々は今、数学と化学という武器を携えて挑んでいるのだ。
日付が変わる頃、私は撮影を終えた写真乾板を手に、地下の暗室へと向かった。
赤色灯の薄暗い光の下で、硝子板を現像液に浸す。ゆらゆらと揺れる液体の中で、闇が定着し、星々の光が黒い点となって浮かび上がってくる。この瞬間こそが、天文学者にとって最も神聖な儀式だ。銀塩の粒子が光を捉え、目には見えない宇宙の断片を可視化する。
ルーペを覗き込み、乾板の隅々まで精査を始めた時だった。私の心臓は、一瞬ののちに激しく鼓動を打った。
エウニケの予測位置とは異なる場所に、奇妙な光の筋が刻まれていたのだ。通常の小惑星ならば、恒星と同じような点として写るか、あるいは僅かな移動を示す程度だ。しかし、この光跡はあまりに長い。まるで、夜空を横切る見えない獣が、その爪痕を乾板に残していったかのように。
「あり得ない」
独り言が、冷たい石壁に反響した。
この移動速度は何を意味するのか。これほど速く移動するということは、この天体が地球に対して極めて近い距離にあることを示唆している。火星と木星の間に広がる小惑星帯という、これまでの常識的な「住処」を飛び出し、我々のすぐ側にまで忍び寄っている未知の彷徨者。
私はすぐさま、これまでの観測記録と照らし合わせ、計算尺を手に取った。鉛筆を走らせる音が、静まり返った天文台に響く。対数表を繰り、軌道を導き出す。計算が進むにつれ、背筋に冷たいものが走った。この天体は、地球の軌道の内側へと深く踏み込んでいる。
これは単なる石塊の発見ではない。太陽系の地図を書き換える、新たな隣人の発見だ。
窓の外を見上げれば、ベルリンの街並みは眠りに就き、ガスの街灯がぼんやりと霧の中に霞んでいる。人々はこの夜、自分たちの頭上を「何か」が猛烈な勢いで掠めていったことなど露ほども知らず、夢の中にいる。
私はその未知の光跡を、ギリシャ神話の愛の神にちなみ「エロス」と呼ぶことに決めた。太陽へと限りなく近づき、そして我々の住まうこの地球という揺り籠に最も親密に寄り添う星。この小さな光の筋が、将来、太陽系の広大さを測るための決定的な物差しとなることを、私は確信している。
東の空が白み始め、鳥たちが囀り始めた。
私は手帳を閉じ、最後に一度だけ、現像されたばかりの乾板を見つめた。そこには、何億年も暗闇を彷徨い続け、今夜初めて人類の視界に捉えられた小さな光が、誇らしげにその軌跡を刻んでいた。
参考にした出来事:1898年8月13日、ドイツの天文学者グスタフ・ウィットが小惑星「エロス」を発見。これは史上初めて発見された地球近傍小惑星(NEO)であり、その後の観測により太陽視差の測定や天文単位(AU)の決定に大きく貢献した。発見時、エロスは非常に速い固有運動を示したため、従来の小惑星とは異なる軌道を持つことが判明した。