【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
今朝のパリは、いつもよりも湿気がまとわりつくような、重苦しい空気に包まれていた。セーヌ川からの風も生ぬるく、石畳の道は夜露に濡れ、鈍い光を反射している。普段なら、この時間にはもう一仕事終えている気分になるものだが、今日は妙に落ち着かない。いや、正確には、朝食を終えた後からずっと、胸の奥底で何かがざわついているのだ。
書斎の窓から、階下の中庭を眺める。屋敷の片隅に設えたガレージには、私の愛する「パナール・エ・ルヴァッソール」が眠っている。あの鋼鉄の塊が、どれほどの夢と興奮を私にもたらしてくれたことか。馬に頼る必要もなく、ただ機械の力だけでパリの街を、郊外の道を、思うがままに駆けることができる。その自由は、まさに新時代の象徴だった。だが、今日からは、その自由にも、新たな規則が課せられることになった。
「オートモビル登録規則」――パリ市警が発令した、あの堅苦しい名前の法令だ。今日から、我がフランスにおいて、すべての自動車は、特定の標識を装着することが義務付けられる。馬車の御者たちが未だに白い目で見るこの新しい乗り物が、ついに公的な存在として認められる、ということなのだろうか。それとも、単なる迷惑物としての規制なのか。私の心は、期待とわずかな不快感の間で揺れ動く。
朝食を済ませ、私はいつものようにガレージへ向かった。整備士のピエールが、すでに作業に取り掛かっていた。彼の顔には、どこか誇らしげな笑みが浮かんでいる。彼もまた、この新しい機械をこよなく愛する男だ。
「ムッシュウ・ポール、準備は整いました」
ピエールが指差す先には、昨日の晩には無かった、見慣れないものが取り付けられていた。
それは、楕円形の黒い鉄板だった。大きさは両の掌を合わせたほどだろうか。表面には白塗りで、数字とアルファベットが記されている。私のパナールには「17 P」と刻まれていた。数字は登録順だろう。そして「P」はパリの頭文字だ。車の前部、ちょうどラジエーターの下あたりに、しっかりとボルトで固定されている。鈍く光るその標識は、これまでの優雅な曲線を描く車体には、どこか無骨で、場違いな印象を与えた。
「これは…」
私は思わず呟いた。自由気ままな一台の機械だったものが、これで街の風景の一部、そして管理されるべき「モノ」として、正式に位置づけられた。少なからず、私の中の冒険心が削がれるような感覚を覚える。まるで、飛び立つ鳥に、脚輪がつけられたかのようだ。
しかし、ピエールは違った。「これで、堂々と走れますね、ムッシュウ!」彼の言葉には、単なる楽観ではない、未来への確信のようなものが感じられた。確かに、これまでは、歩行者から「悪魔の馬車だ!」と罵られたり、馬車の御者たちからは道を譲ることを拒まれたりすることも少なくなかった。排気ガスの匂いや、聞き慣れないエンジンの音は、人々にとって恐怖の対象でもあったのだ。この標識が、我々オートモビルの運転手を、そしてこの新しい乗り物を、社会の「正当な」一員として認めるための、第一歩となるのかもしれない。
私は、車に乗り込んだ。いつものようにクランクを回し、エンジンに火を入れる。ブゥン、と野太い音を立てて、機械が目覚めた。ガソリンの独特な匂いが、朝の空気に混じる。ピエールが「お気をつけて」と声をかけ、私はガレージを後にした。
サン・ジェルマン大通りに出ると、まだ早朝だというのに、人々が立ち止まって私の車を見ている。これまでは好奇の目、あるいは蔑みの眼差しが多かったが、今日は少し違うようだ。視線は、私の顔でも、車の形でもなく、前部に取り付けられたあの楕円形の標識に集まっているように感じられた。人々はひそひそと何かを囁き合っている。
「あれが、新しい規則の標識かね」
「数字が打たれているようだ」
そんな声が、わずかに風に乗って聞こえてきた。
他のオートモビルも、ちらほらと見かけるようになった。皆、例外なくあの黒い楕円形の標識を掲げている。一台一台に、それぞれの「顔」が与えられたかのようだ。これまでは、ただ「オートモビル」という総称で呼ばれていたものが、今日からは「17 P」のパナールであり、「42 S」のプジョーなのである。
ルーブル美術館の前を通り過ぎる。観光客らしき人々が、私の車を指差して驚いている。馬車が主流の時代、蒸気機関車がようやく遠い旅を可能にした時代に、まさか個人が、こんなにも自由に道を駆ける乗り物を所有する日が来るとは、誰が想像しただろう。そして、その乗り物が、やがて来るべき未来の交通の主役となり、そのためにこのような「識別」が必要となる日が来るとは。
最初は、ただの邪魔な鉄板だと感じた。だが、今、この標識を付けたオートモビルを運転しながら、私は奇妙な感覚に襲われている。それは、個人の自由が制約されることへの不満ではなく、むしろ、この新しい時代の一員として、社会の中で確固たる地位を築きつつあることへの、ある種の感慨に近い感情だった。この小さな楕円形の鉄板は、単なる記号ではない。それは、秩序の始まりであり、未来の交通の礎石となるものなのだ。
いずれ、このパリの街中が、いや、フランス中が、世界中が、この鋼鉄の標識を付けたオートモビルで溢れかえる日が来るのだろうか。想像すると、胸が高鳴る。今日のこの朝の出来事を、後世の人々は、何と呼ぶのだろう。私は、その歴史の最初の証人として、この一ページを書き記しておこう。
参考にした出来事
1893年8月14日:フランスで世界初の「自動車ナンバープレート」の義務化が始まる。パリ市警が発令した規則により、登録番号と市町村のイニシャルが刻印された楕円形の鉄板を、すべての自動車に装着することが義務付けられた。