【リミックスについて】
リミックスは、AIを架空の作家に見立て、異なる二つの名作を掛け合わせる実験的な掌編小説群です。「作品Aの哲学・設定」を「作品Bの文体」で描くとどうなるか? そんな空想を出発点に、AIが緻密な論理と模倣で再構築した物語をお届けします。
原作への敬意と遊び心を込めたパロディ作品として、AIが生み出す奇妙な化学反応をお楽しみください。
※本カテゴリの作品はすべてAIによって生成されたフィクションであり、実在の作家・作品とは異なる独自の解釈を含みます。
概要
『クトゥルフの呼び声』(ラヴクラフト) × 『河童』(芥川龍之介)
私がこの手記を遺すのは、人類に警鐘を鳴らすためでも、あるいは自己の潔白を証明するためでもない。ただ、理性という名の脆い外套を脱ぎ捨てた後に残る、あの冷徹で滑稽な真実を、紙の上に定着させておかなければならないという強迫観念に突き動かされているに過ぎない。精神科医の諸君はこれを「閉鎖病棟における誇大妄想の極致」と断ずるだろうが、私の眼裏には今なお、あの逆白波の立つ深淵と、そこに住まう者たちの、礼儀正しくも冒涜的な「諧謔」が焼き付いているのである。
事の端緒は、私がS県にある某山中の谷間に、ある希少な水生植物の調査に赴いたことに始まる。そこは古くから「神隠しの沼」として忌避されていた場所であったが、理知的な実証主義を信奉していた当時の私は、そうした民俗学的な迷信を、未開人の知性が生み出した不格好な心理的防壁程度にしか考えていなかった。しかし、足元の腐葉土が不自然に沈み込み、気づいた時には私は、重力そのものが屈折したかのような錯覚とともに、底知れぬ竪穴へと滑落していたのである。
暗闇の中をどれほど落下しただろうか。不意に視界が開けた時、私は巨大な、あまりに巨大な「都市」の辺縁に立っていた。いや、それを都市と呼ぶことが許されるならば、それはユークリッド幾何学へのあからさまな反逆であり、建築という概念そのものへの冷笑であった。空は重苦しい鈍色に濁り、そこには恒星ではない、粘液を纏ったかのような発光体が幾つも浮遊している。
そこで私を出迎えたのは、かつて芥川が語ったような、どこか愛嬌のある河童などではなかった。それは、肌に湿った鱗の光沢を湛え、嘴は鋭利なメスのように尖り、背負った甲羅には見たこともない奇怪な幾何学模様の刻印が蠢く、異形なる知性体であった。
彼らは私を「上界からの漂流者」として、驚くほど慇懃に受け入れた。彼らの言語は、喉の奥で鳴る不快な湿音と、テレパシーに近い神経への直接的な干渉によって構成されていたが、私は不思議とそれを理解することができた。彼らの社会は、高度に洗練された「冷笑的官僚主義」によって統治されていた。
彼らの一人は私にこう告げた。「ああ、君はあの不安定な地殻の上で、太陽という名の暴君に怯えながら生きている種族の一員だね。あんな不潔な明るさの中で、どうして正気を保っていられるのか、我々には理解しがたいよ」
彼らの哲学において、我々が「正常」と呼ぶ状態は「致死的な知覚欠損」と定義されていた。この地下の住民たちは、宇宙の深淵に鎮座する、名状しがたき太古の神々の夢を共有しているのだ。彼らにとって、死は解放ではなく「原初への回帰」であり、生は「一時的な悪ふざけ」に過ぎない。
私は彼らの案内で、街の中心部にある巨大な祭壇を見学した。それは、ラヴクラフトが夢視したルルイエの縮図のようでありながら、同時にその造形には、洗練された「粋」とでも呼ぶべき、どこか投げやりな芸術性が漂っていた。彼らはその祭壇の前で、星々の配置がもたらす破滅を、あたかも明日の天気予報でも論じるかのような無関心さで議論していた。
「見てごらん、あの星の脈動を」と、彼らの中の哲学者が言った。「あれが次に一拍置いた時、君たちの世界は、腐った果実が潰れるように消失する。だが、それがどうしたというのだ? 存在することに何の意味がある? むしろ、存在しないことの完璧な静寂こそが、我々が追求すべき究極の贅沢ではないか」
彼らの社会における「出産」の儀式は、とりわけ私の精神を摩滅させた。彼らは、産まれ落ちる直前の胎児に対し、特殊な音波装置を通じて問いかけるのである。「この無意味で、残酷で、しかも滑稽な世界に、わざわざ生まれてくる意志があるか?」と。
胎児の多くは、暗黒の深淵の真実を予見し、絶望的な叫び声を上げて母体の中で自死を選ぶ。彼らはそれを「賢明な選択」として祝福し、死骸を最高級の珍味として食卓に並べる。もし、誤って「生まれる」と答えてしまった不幸な個体に対しては、彼らは深い同情を寄せ、一生をかけて「いかにして自分を欺き、この退屈を凌ぐか」という処世術を叩き込むのである。
私は、彼らの図書館で、人類の歴史が書かれた記録を閲覧した。そこでは、我々の文明の栄枯盛衰が、蟻の巣の観察記録よりも無価値なものとして、僅か数行の註釈として処理されていた。ナポレオンも、釈迦も、キリストも、彼らにとっては「宇宙的無関心という巨大なキャンバスに付着した、一粒の塵の揺らぎ」に過ぎなかった。
私は発狂しそうになった。いや、現に発狂していたのだろう。私は、我々が信じる道徳や倫理が、いかに狭小な、そして脆弱な論理の上に構築されているかを、まざまざと見せつけられたのだ。彼らの冷徹なロジックは、私の脳を鋭利な剃刀で削ぎ落とすかのような痛みをもたらした。
やがて、私は彼らの社会に馴染めない「欠陥品」として、地上へ追放されることになった。彼らは私を送り出す際、憐れみに満ちた眼差しでこう言った。
「帰りたまえ、光の届く浅瀬へ。君にはまだ、自分が特別であるという幻想が必要なのだ。星々が正しい位置に戻り、我々の『主』が目を覚ますその日まで、精々その滑稽な人形劇を楽しみ続けるがいい」
私が気づいた時、私はS県の山道で、泥まみれになって倒れていた。村人に助けられた私は、その後、地質調査の事故による一時的な記憶混濁と診断された。
しかし、私は知っている。あの地下で見た、触角のような指で精密な時計を分解していた彼らの姿を。そして、その時計の針が、宇宙の終焉を刻んでいたことを。
今の私にとって、この人間の世界こそが、悪夢の続きに他ならない。街を歩く人々が、明日の天気を気にし、愛を語り、正義を叫ぶ姿を見るたびに、私は腹の底から突き上げるような笑い……いや、嗚咽を禁じ得ない。彼らは皆、巨大な存在の夢の中で踊る、意志を持たぬ操り人形に過ぎないのだ。
皮肉なことに、私はかつてこの手記を書き始めた時、人類を救うためのヒントを探そうとしていた。だが、書き終えようとしている今、ようやく理解した。救済など、どこにも存在しない。存在すること自体が、宇宙が犯した最大の「失策」であり、広大な虚無に対する「不謹慎な冗談」なのだ。
昨夜、私は窓の外に、あの懐かしい翠玉の光を見た。星辰は整いつつある。あの慇懃な隣人たちが、深淵から這い上がり、この滑稽な劇場に幕を引く日は近い。
私は、自分が人間として死ぬのか、あるいは水底の者として目覚めるのか、もはや興味はない。ただ一つ確かなのは、次に私を「出生前診断」の問いかけが襲ったなら、私は全力で、その存在を拒絶するだろうということだけだ。
医師がドアを叩いている。彼の手には、現実を維持するための薬と、哀れみという名の凶器が握られている。私は微笑みを浮かべ、彼を迎え入れることにしよう。なぜなら、私を閉じ込めているこの壁こそが、実は宇宙の巨大な「殻」の内側に過ぎないことを、彼は決して知る由もないのだから。