目の前には、常に一人の背中がある。 それがこの場所のすべてだった。 人々は等間隔に並び、一列になって歩き続けている。 この列がどこから始まり、どこへ向かっているのかを知る者はいない。 ただ、自分に与えられた役割を果たすだけだ。
男の役割は、目の前の背中を世にも美しく装飾することだった。 男は毎日、前の男の背中を磨き、色鮮やかな絵具で模様を描き、時には貴重な石を埋め込んだ。 前の男は何の礼も言わず、ただ黙々と歩を進める。 男は時折、前の男をひどく傲慢な存在だと感じた。 自分はこれほどまでに尽くしているのに、前の男は一度も振り返らず、感謝の気配すら見せないからだ。
しかし、男は絶望しなかった。 なぜなら、自分自身の背中にも、見知らぬ「後ろの者」の手を感じていたからだ。 後ろの者の手つきは、この上なく繊細だった。 男の背中の汚れを拭い、丁寧に油を塗り込み、滑らかな指先で極上の刺繍を施してくれる。 その感触を味わうたびに、男はうっとりと目を閉じた。 「後ろの者は、なんて高潔で慈悲深いのだろう。見返りも求めず、私の背中をこんなにも愛してくれている」 男は後ろの者に恋をしていた。 前の男に尽くすのは、後ろの者から受けている恩恵を、さらに前の者へ繋ぐための神聖な儀式なのだと信じ込むことにした。
年月が流れた。 男は前の男の背中を飾り立てることに、人生のすべてを捧げた。 だが、執着が深まるにつれ、醜い疑念が鎌首をもたげた。 前の男が背負っている黄金や宝石は、もともとは自分の所有物ではないか。 自分は痩せ衰え、ボロを纏って歩いているというのに、前の男は自分の施しによって、ますます輝きを増していく。 一方で、後ろの者はどうだろう。 相変わらず、自分の背中を優しく、熱心に手入れしてくれている。 「そうだ。前の男さえいなければ、私は後ろの者と向き合えるはずだ」 男は決意した。 この不条理な列を断ち切り、自分を愛してくれる「あの人」に会おう。
男は懐から、装飾用に持ち歩いていた鋭利なノミを取り出した。 そして、前を行く男の背中の中心、もっとも美しく磨き上げた黄金の紋章の真ん中に、力任せにそれを突き立てた。 手応えがあった。前の男の背中から、どろりとした赤い液体が溢れ出す。
その瞬間、男は自分の胸を貫く凄まじい衝撃に襲われた。 「あがっ……」 喉の奥から乾いた声が漏れる。 同時に、後ろから回されていた愛撫のような優しい手つきが、ぴたりと止まった。 男は血を吐きながら、もつれる足で無理やり体を反転させた。 「後ろの……正面は……」
そこには、誰もいなかった。 あるのは、歪んだ鏡のような大気だけだった。 回廊が極限まで湾曲したこの世界では、一列に並んでいるように見えても、実は円を描いていた。 男が「前の男」だと思って慈しんできた背中は、長い距離を一周して戻ってきた、自分自身の後ろ姿だった。
男は地面に崩れ落ちた。 自分の右手に握られたノミは、今まさに、自分自身の胸を後ろから突き破っていた。 男が憎んだ「傲慢な男」も、男が愛した「慈悲深い後ろの者」も、最初から存在しなかった。 そこにはただ、自分の背中に向かって必死に手を伸ばし、自らを飾り立て、自らを刺し殺した、滑稽な一人の男が転がっているだけだった。
男の視界が暗転する直前、また新しい足音が聞こえてきた。 後ろからやってきた誰かが、冷たくなった男の背中を、再び丁寧に磨き始める感触がした。