概要
祖父が遺した、止まったままの古い腕時計。ねじを巻くたび、幼い日の記憶と不器用な愛が溢れ出す。時の流れの中で置き去りにした「本当の言葉」を再会させる、再生と惜別の物語。
祖父の書斎に漂う空気は、主(あるじ)を失ってからというもの、ひどく静止している。 窓際のアームチェアには、まだ彼が腰掛けていた頃の窪みが微かに残っているが、そこから立ち上るのは、お気に入りだったはずの「ピース」の煙ではなく、埃を含んだ冬の午後の匂いだけだった。
私は机の引き出しの奥から、古い機械式の腕時計を取り出した。 それは祖父が肌身離さず着けていたものだ。長い年月を経て、革ベルトは飴色を通り越して深い焦げ茶になり、風防には無数の細かな傷が走っている。
祖父は、多くを語る人ではなかった。 私の進路が決まった時も、仕事で大きな失敗をして逃げるように帰省した時も、彼はただ、節くれだった大きな手でこの時計のねじを巻いていた。チチチ、という規則正しい音だけが、気まずい沈黙を埋めてくれた。
「時計はな、止まったら終わりじゃない。面倒を見てやれば、また歩き出すんだ」
それが、祖父が私に遺した数少ない「教え」のようなものだった。
私は指先に力を込め、重たくなった竜頭(りゅうず)をゆっくりと回した。 指の腹に伝わる、硬質な抵抗。 一回、二回。 けれど、琥珀色の文字盤の上で、細い秒針は眠ったまま動こうとしない。
不意に、視界が滲んだ。 通夜の席でも、葬儀で棺に花を添えた時も、私は一滴の涙も流さなかった。周囲からは「気丈だ」と言われたが、ただ実感がなかっただけだ。どこかでまだ、彼が庭の植木を剪定しているような、あるいは台所で茶を啜っているような気がしていた。
しかし、この止まった針が、残酷なまでに彼の不在を証明していた。 どれだけねじを巻いても、彼の時間は二度と動き出さない。 私の幼い手を引き、縁日の喧騒の中を歩いたあの体温も、少しだけ酒臭かった溜息も、もうこの世界のどこにも存在しないのだ。
私は机に突っ伏した。 冷たい木の感触が頬に伝わる。 「おじいちゃん、ごめん。何も言えなくて、ごめん」 声に出すと、胸の奥に溜まっていた澱(おり)のような感情が、熱い塊となって溢れ出した。 もっと話を聞けばよかった。あの時、ただ「ありがとう」と言えばよかった。 後悔は、乾いた喉を焼くようにせり上がってくる。
その時だった。
手のひらの中で、微かな、本当に微かな振動が伝わってきた。
――チッ、チッ、チッ。
私は顔を上げ、時計を見つめた。 止まっていたはずの秒針が、まるで深い眠りから覚めたばかりの子供のように、震えながら、けれど確かな足取りで一歩を踏み出した。
西日が風防の傷に反射して、一瞬、眩しく光る。 その光の中に、祖父の笑顔が見えた気がした。 呆れたように笑いながら、「ほらな、動くだろう」と呟くあの声が。
私は、涙で濡れた袖で目元を拭った。 時計は、一秒一秒、正確に時を刻み続けている。 それは彼が私に託した、命の続きのようだった。 悲しみが消えることはないだろう。けれど、この鼓動が続く限り、私はまだ歩いていける。
窓の外では、夕闇がゆっくりと街を包み込もうとしていた。 私は自分の手首に、まだ冷たいその時計を巻いた。 革のベルトは驚くほど私の腕に馴染み、まるで誰かに優しく手を握られているような、静かな温もりに満たされていた。