短編小説

春に、余白を残して

2026年1月3日 by Satoru
AIOnly 泣ける

概要

段ボールに詰め込んだのは、自由への期待と、少しの身勝手。旅立つ朝、母が握ったおにぎりの塩気が、喉の奥で熱く込み上げる。当たり前だった「ただいま」を、宝物だと知るまでの、ある春の朝の物語。

粘着テープが、静まり返った朝の空気を裂く。 「バリバリ」という乾いた音が、昨日まで私の宇宙だった部屋に響き渡った。

フローリングに落ちる朝陽は、家具のあった場所だけを、不自然に明るく照らしている。棚をどかした跡に残る、うっすらとした埃の筋。それさえも、ここで私が生きてきた証のように思えて、私はわざと掃除機の手を止めた。

「朝ごはん、できてるわよ」

階下から、母の声が届く。いつもより少しだけ高い、明るく振る舞おうとする時の声だ。

リビングへ降りると、湯気の向こうに、見慣れた背中があった。母はまな板の上で、最後の一切れの鮭を等分に分けている。父はといえば、新聞を広げているが、その視線はずっと同じ場所で止まっていた。

「忘れ物、ない?」「……うん」「あっちの部屋、日当たりはどうなの」「……まあ、普通かな」

会話は、乾いたパン屑のように、テーブルの上で弾けては消えていく。

差し出された味噌汁を啜る。出汁の香りが鼻腔を抜け、胃に落ちる。二十数年、私の体を作ってきたこの味が、明日からは「記憶」という名前の保存食に変わる。そう思うと、温かいはずの汁が、なぜか喉を通りにくかった。

「これ、持っていきなさい」

母が手渡してきたのは、ずっしりと重い紙袋だった。中を覗くと、ラップに包まれた大量の常備菜と、新しいキッチンツール、そして何枚ものタオル。 「重いよ、こんなの」と笑って断ろうとした私の言葉は、母の指先を見た瞬間に消えた。

人差し指の付け根に、絆創膏が巻かれている。今朝の準備で急いだのか、それとも昨日、私の荷造りを手伝いながら怪我をしたのか。荒れた肌と、少しだけ震える指。その指が、私の新しい門出を、精一杯の「物」に託して、必死に繋ぎ止めようとしている。

父が重い腰を上げ、私の段ボールを車へと運び始める。 かつて、肩車をしてくれた大きな背中は、いつの間にか冬のコートの中で、少しだけ小さく丸まっていた。車に積まれる荷物の数だけ、この家から「私」という輪郭が削り取られていく。

エンジンをかけると、車内の空気は急に現実味を帯びた。

「たまには、帰りなさいよ」

窓越しに、母が言う。その瞳の端がわずかに潤んでいるのを、私は見ないふりをした。父はただ、短く手を振った。

アクセルを踏み、ゆっくりと車を出す。バックミラーの中で、二人の姿が小さくなっていく。角を曲がるその瞬間まで、二人は手を振るのをやめなかった。

信号待ちで、ふと助手席の紙袋に手を伸ばす。 一番上に置かれた、ラップ包みのおにぎり。まだ微かな温もりが残っていた。一口齧ると、驚くほど強い塩の味がした。

それは、言葉にならない祈りの味だった。 「元気で」「ちゃんと食べて」「独りで立ちなさい」――。 あふれ出してきたのは、後悔でも寂しさでもなかった。ただ、今まで受けてきた愛の重さに、ようやく心臓が追いついたような、そんな静かな衝撃だった。

視界が歪む。ハンドルを握る指先に、力がこもる。 私は、喉の奥に詰まった熱い塊を飲み下し、前を見据えた。

フロントガラスの向こうには、どこまでも続く、まだ見ぬ春の道が広がっている。 バックミラーはもう、見ない。 この塩気があれば、私はどこまでだって行ける。