短編小説

三番目のボタン

2026年1月3日 by Satoru
AIOnly 泣ける

概要

親友が遺したのは、修理を頼まれていた一着のコート。裏地に隠された「小さな秘密」に気づいたとき、止まっていた時間が静かに流れ出す。大人の心に深く染み入る、喪失と受容を丁寧に描いた物語。

霧雨が、古い仕立て屋の窓をぼんやりと濡らしていた。 店内に漂うのは、長年使い込まれたアイロンの蒸気の匂いと、わずかに埃を孕んだ古い羊毛の香りだ。

作業台の上には、深い紺色のカシミアコートが横たわっている。 一週間前、健二が「これ、また頼むよ」と言って置いていったものだ。 彼はいつものように、店に入るなり「景気はどうだい、職人さん」と声をあげ、私の返事も待たずにパイプ椅子に腰を下ろした。

健二と私は、小学校の校庭で泥だらけになって以来の仲だ。 彼はせっかちで、私は慎重。 彼は営業職として世界を飛び回り、私はこの静かな街で父の代からの針を動かし続けた。 正反対の二人を繋いでいたのは、この店で交わす、名前をつけるまでもない他愛ない会話だった。

「三番目のボタンが緩んでるんだ。あと、襟のところが少し擦れてるかな」

それが、彼の最後の言葉になった。 翌日の午後、健二は出張先の駅のホームで、心臓の鼓動を止めた。 あまりにも呆気なく、糸がプツリと切れるような最期だったという。

私は、彼のいない世界で、彼が残したコートに向き合っている。 指先が震えるのを、もう片方の手で押さえた。 彼がいなくなったという実感が、まだ喉の奥に固形物のように引っかかっている。

針を手に取り、緩んだ三番目のボタンに糸を通す。 裏地を指でなぞると、健二の体温がまだ残っているような錯覚に陥った。 ボタンを締め直そうとしたその時、指先に硬い感触が触れた。

裏地の合わせ目、通常なら何も入るはずのない場所に、小さな膨らみがある。 私はプロの矜持として、その不自然さを放っておけなかった。 細いリッパーで丁寧に糸を解くと、中から四つ折りにされた古びた紙切れが滑り落ちた。

それは、三十年前の映画の半券だった。 私たちが高校を卒業する直前、二人で観に行った洋画のチケットだ。 当時の私は、家業を継ぐべきか、それとも外の世界へ飛び出すべきか、答えを出せずにいた。 健二は暗闇の中で、「お前は、この街で一番の仕立て屋になるんだよ」と、ぶっきらぼうに言った。

チケットの裏には、走り書きでこう記されていた。

『このコートが、世界一の職人の手に届きますように』

文字は擦れ、色褪せていたが、それがいつ書かれたものかはすぐに分かった。 一週間前、彼がこの店に来る直前だ。 その筆跡には、年齢を重ねた彼特有の、わずかな震えが混じっていた。

彼は知っていたのだ。 私が最近、指先のこわばりを理由に、店を畳もうと考えていたことを。 何も言わずに、彼は私を「世界一の職人」として認め、奮い立たせようとしていた。

窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。 雲の切れ間から差し込んだ細い光が、作業台の上のボタンを鈍く照らしている。

私は熱いアイロンを手に取った。 シュッ、という白い蒸気が立ち上がり、コートの皺を滑らかに伸ばしていく。 視界が熱い膜で歪み、一滴、また一滴と、紺色の生地に濃いシミを作った。 「馬鹿野郎……、お節介なんだよ、お前は」

口から漏れた言葉は、湿った空気の中に静かに溶けていった。

数時間後。 店先には、新品のように整えられた紺色のコートが、一点の曇りもない姿で吊るされていた。 持ち主のいないその服は、それでもどこか誇らしげに見えた。

私は、道具箱の中から新しい糸を取り出した。 指先のこわばりは、もう気にならなかった。 窓を開けると、雨上がりの冷たく澄んだ空気が、私の火照った頬を優しく撫でて通り過ぎていった。