【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
フロリダの夜明け前は、いつも湿った沈黙に支配されている。午前三時、ケープカナベラル。重苦しい湿気を含んだ海風が、発射台に鎮座するアトラス・ロケットの銀色の肌をなでていく。我々技術陣の目には、その巨体はもはや単なる機械の塊ではなく、一人の男の命を託された、呼吸する生き物のように映っていた。
コーヒーの苦みと、何十時間も吸い殻を溜め込んだ灰皿の臭いが、管制室の冷え切った空気の中に澱んでいる。モニターには、眩いばかりの照明に照らし出された「フレンドシップ7」の小さなカプセルが映し出されていた。あの中に、今まさにジョン・グレンが乗り込もうとしている。何度繰り返された延期だろうか。一月以来、天候不順と機体トラブルによって、我々は幾度も打ち上げを断念してきた。だが、今日、雲は薄く、風は凪いでいる。
ジョンがカプセルに入った後、ハッチが閉じられる瞬間の金属音が、通信回線を通じて私の耳に届いた。それは、現世との絆を断ち切る音のようにも聞こえた。彼の脈拍は驚くほど安定している。かつて朝鮮戦争で敵機と渡り合い、テストパイロットとして音速の壁を越えてきた男の心臓は、人類初の挑戦を前にしてもなお、静かなリズムを刻んでいた。
「Tマイナス、テン、ナイン、エイト……」
カウントダウンが地を這うような低音で響き渡る。ゼロの瞬間、巨大な轟音が管制室の床を突き上げた。数マイル離れた場所にいる我々の胃の腑を震わせるほどの振動。モニターの中のアトラスは、自らの重力に抗うように一瞬だけ身悶えし、次の瞬間、眩いオレンジ色の火炎を吐き出しながら、夜明け前の空へと突き進んでいった。
「時計は動いている」
ジョンの声だ。ノイズ混じりだが、はっきりと聞き取れる。彼は今、凄まじい重力加速度に押し潰されながら、空を突き抜け、宇宙という名の深淵へと向かっている。高度が上がるにつれ、青かった空は急速に色を失い、インクを零したような漆黒へと変わっていくはずだ。
打ち上げから数分後、アトラスのブースターが切り離され、彼はついに軌道に乗った。アメリカ人として初めて、地球を周回する孤独な旅人の誕生だ。テレメトリが送ってくる数値は、カプセルが時速一万七千五百マイルという想像を絶する速度で移動していることを示している。
一回目の周回、ジョンの興奮した声がマイク越しに響いた。「なんて美しいんだ」と。彼はカノープスを見、オーストラリアのパースの街灯りを見、そしてカプセルの周囲に舞う謎の「光る虫」を見た。我々地上の人間が数式や写真でしか知らなかった世界を、彼は血の通った言葉で描写していく。
しかし、二回目の周回に入った頃、管制室の空気が一変した。
「セグメント51」の警告灯が点灯したのだ。ランディング・バッグのロックが外れている可能性。もしそれが事実なら、大気圏再突入の際、機体を守るべきヒートシールド(耐熱遮蔽板)が脱落してしまう。それはすなわち、ジョン・グレンという人間の肉体が、摩擦熱によって一瞬で灰に帰ることを意味していた。
我々は決断を迫られた。逆噴射ロケットのストラップを外さずに、そのまま再突入させるという賭けだ。ストラップがヒートシールドを繋ぎ止めてくれることを祈るしかない。ジョンには事態の詳細は伏せられたが、熟練のパイロットである彼は、我々の指示の不自然さから、己の命が危機にあることを察していただろう。
再突入が始まった。通信が途絶える「ブラックアウト」の四分三十秒。
管制室は、死者が集う場所のように静まり返った。換気扇の回る音だけが、虚しく響いている。誰もがモニターを凝視し、時計の針を追った。ジョンが今、火の玉となって空を切り裂いている光景を想像し、指先が白くなるほど拳を握りしめていた。大気との摩擦で、カプセルの外壁は二千度を超えているはずだ。耐熱板が外れていれば、彼はもうこの世にはいない。
「聞こえるか、こちらフレンドシップ7」
ノイズの向こうから、聞き慣れた、だが心なしか安堵の混じった声が戻ってきた。その瞬間、管制室にいた男たちが、一斉に、しかし言葉にならない叫びを上げて立ち上がった。抱き合う者、顔を覆って泣き出す者、ただ呆然と天井を見上げる者。
ジョン・グレンは生きていた。
彼は三周の地球周回を終え、バハマ沖の荒れる海に無事着水した。
夕刻、彼を回収した駆逐艦ノアの甲板で、潮風に吹かれるジョンの写真が届いた。宇宙を旅してきた男の顔は、憔悴しながらも、どこか聖職者のような厳かな光を湛えていた。
今日、私たちは歴史の頁をめくったのではない。自分たちの手で、新しい一頁を書き加えたのだ。人類はもはや、重力に縛られただけの存在ではない。この小さな青い星を外側から眺め、星々の間を航行する術を手に入れたのだ。
夜のケープカナベラルは、打ち上げの熱気が嘘のように静まり返っている。だが、私の耳の奥では、今もあのアトラスの咆哮と、宇宙の静寂、そしてジョンの穏やかな声が響き続けている。私たちは明日からまた、さらなる高みを目指して計算尺を握るだろう。あの日、銀色の針が空に描いた軌跡は、まだ物語の序章に過ぎないのだから。
参考にした出来事:1962年2月20日、マーキュリー・アトラス6号による、アメリカ人初の地球周回飛行。ジョン・グレンが宇宙船「フレンドシップ7」で約4時間55分かけて地球を3周し、無事帰還した。