【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
コネチカット州、ニューヘイブン。窓の外は、凍てつくような冷たい雨が降り続いている。病院の廊下を流れる空気は、消毒液の鼻を突く匂いと、死を待つ者の重苦しい沈黙に支配されていた。私の手元の時計は深夜を回ったところだが、眠気など微塵も感じない。それよりも、指先の震えを止めることに必死だった。
三〇一号室。そこに横たわるアン・ミラー夫人の容体は、もはや医学の限界を超えていた。流産に伴う溶血性連鎖球菌による敗血症。高熱は華氏一〇六度に達し、彼女の意識は深い霧の向こう側へと消えかかっている。私たちは、今あるあらゆる手段を尽くした。スルファ剤を大量に投与し、輸血を繰り返し、祈りすら捧げた。しかし、細菌という目に見えない悪魔は、彼女の血流の中で増殖を続け、その生命力を一滴残らず啜り取ろうとしている。
昨夜、バムステッド博士が、政府と軍の特別な許可を得て取り寄せた「ある物質」について語ったとき、私は耳を疑った。ニュージャージーのメルク社の工場から届けられたというそれは、わずか一さじ分ほどの粉末だった。アレクサンダー・フレミングが偶然見つけ、フローリーとチェインが精製に成功したという、アオカビから抽出された魔法の弾丸。ペニシリン。
いま、私の目の前にある小さなガラス瓶には、蒸留水で溶かされたその液体が入っている。濁った琥珀色。この頼りない液体が、死神の鎌を跳ね返すことができるというのだろうか。戦場では何万人という若者が命を落としているこの時に、たった一人の女性のために、世界中の在庫の半分にも及ぶこの貴重な薬が投じられようとしている。
午前九時。バムステッド博士の指示のもと、私は彼女の細くなった静脈に針を刺した。慎重に、一滴の無駄も許されない。プランジャーを押し込む際、私の心臓の鼓動は耳の奥で鐘のように鳴り響いていた。液剤がゆっくりと彼女の体内へ消えていく。アンの肌は土気色で、呼吸は浅く、死の臭いが漂っている。
午後、私は彼女の枕元を離れることができなかった。一時間おきに体温を測り、脈を診る。変化はない。細菌との戦いは、静寂の中で行われている。外では戦争のニュースがラジオから流れ、ナチスの進撃や太平洋の激戦が報じられている。世界が破壊に向かっている中で、私たちは顕微鏡サイズの戦場で、ひとつの命を守るために戦っている。
夕刻、奇跡の予兆が訪れた。
五時を過ぎた頃、アンの額にうっすらと汗が浮かんでいるのに気づいた。一〇六度から動かなかった体温計の目盛りが、わずかに、しかし確実に下がり始めている。夜八時、彼女の呼吸から荒い喘ぎが消えた。そして深夜。
アンが、目を開けたのだ。
焦点の定まらない瞳が、ゆっくりと私を捉えた。彼女は、掠れた声で「お水がほしい」と呟いた。その一言は、死の淵からの帰還を告げる喇叭の音のように聞こえた。バムステッド博士と顔を見合わせた。博士の厳格な顔が、見たこともないような安堵に崩れていく。
私たちは今、歴史の転換点に立ち会っているのかもしれない。これまで、感染症という運命の前で人類はあまりに無力だった。擦り傷ひとつ、喉の痛みひとつが、容易に死へと繋がる暗黒の時代。しかし、この琥珀色の液体が、その鎖を断ち切った。
窓の外では、依然として雨が降っている。しかし、私の心には、夜明けよりも眩い光が差し込んでいる。今日、一九四二年三月十一日。この日は、医学が死神に対して決定的な勝利を宣言した最初の日として、永劫に記憶されることになるだろう。アン・ミラーという一人の女性の命が救われたという事実は、戦火に包まれた世界において、人類がまだ未来を信じるに値するという証左なのだ。
ペンを置く私の手は、もう震えていない。心地よい疲労感と共に、私は彼女の穏やかな寝息を聞きながら、新しい時代の到来を静かに祝福している。
参考にした出来事
1942年3月14日:ペニシリンによる世界初の臨床治療の成功
(※注:本稿では入力された「3月11日」を治療開始、あるいは決定的変化の起点として構成しているが、一般的には1942年3月14日にコネチカット州ニューヘイブン病院にて、アン・ミラー夫人の敗血症がペニシリン投与により劇的に改善したことが、世界初の本格的な臨床成功例とされる。これにより抗生物質の時代が幕を開けた。)