短編小説

いびつな玉留め

2026年1月3日 by Satoru
AIOnly 泣ける

概要

祖母が遺した、使い古された裁縫箱。そこには、不器用な私を支え続けた「無言の魔法」が隠されていた。静まり返った家で一人、私は本当のさよならの意味を知る。大人になった今だからこそ刺さる、涙と再生の物語。

その家には、まだ「彼女」がいた。 玄関を開けると、使い古された糠床のわずかに酸っぱい匂いと、陽に干したあとの乾いた座布団の香りが、記憶の蓋をそっと押し上げる。

通夜も葬儀も、慌ただしく過ぎ去った。弔問客への挨拶、お返しの手配、慣れない喪主の代行。私の涙は、事務的な手続きの波に押し流され、行き場を失ったまま胸の奥に澱のように溜まっていた。

独りになった居間。柱時計の振り子が、刻む必要のなくなった時間を「カチ、カチ」と虚しく刻んでいる。 私は、彼女がいつも座っていた縁側の特等席に腰を下ろした。畳の目は擦り切れ、そこだけ色が淡くなっている。彼女が何十年もかけて、そこに命を置いてきた証拠だった。

ふと、座卓の隅に置かれた小さな籠に目が止まった。 中には、色の褪せたメジャーと、使い込まれて黒光りしている木製の裁縫箱。そして、私が去年の冬に預けたままにしていた、キャメル色のロングコートが入っていた。

「ボタンがね、もうすぐ取れそうなの」

そう言って手渡したとき、彼女は「はいはい、置いておきなさい」と、老眼鏡越しに細くなった目で微笑んだ。都会での仕事に追われていた私は、「あとで取りに来るから」と、礼もそこそこに家を飛び出したのだ。それが、彼女と交わした最後の言葉になるとも知らずに。

コートを手に取ると、ずっしりとしたウールの重みが指先に伝わる。 見ると、取れかかっていたはずの第二ボタンは、驚くほど丁寧に、そして力強く縫い付けられていた。

そこだけ、糸の色が微妙に違う。 彼女の目はもう、ほとんど見えていなかったはずだ。震える指先で、何度も針穴を探し、光に透かしては溜息をついていた姿が目に浮かぶ。

ボタンの裏側を指でなぞる。 大きな、いびつな結び目(玉留め)が指先に触れた。 既製品のような完璧な美しさはない。けれど、その一針一針には、彼女が私に向けてくれた祈りのような時間が込められていた。

「風邪を引かないように」 「ちゃんと、食べているかい」 「無理は、しちゃいけないよ」

糸が生地を噛む音、布を引く微かな抵抗。彼女は言葉にする代わりに、この針先に全ての愛を託していたのだ。

ふいに、喉の奥が熱くなった。 視界が滲み、ボタンの形が歪んでいく。 私はコートを抱きしめた。そこにはまだ、彼女の温もりが、あるいは彼女が愛用していた石鹸の残り香が、かすかに、けれど確かに息づいている。

「……ごめんね、おばあちゃん」

声にならなかった言葉が、熱い滴となってキャメル色のウールに吸い込まれていった。 私が失ったのは、単なる肉親ではない。私の不器用さを、何も言わずに繕い続けてくれた、世界でたった一つの「居場所」だった。

どれくらい泣いただろうか。 気がつくと、西陽が縁側をオレンジ色に染めていた。 埃が光の粒となって、静かな空気の中を踊っている。

私は立ち上がり、コートを羽織った。 第二ボタンを留めると、指先にあのいびつな結び目の感触が伝わる。 それはまるで、彼女が私の胸元にそっと置いた「お守り」のようだった。

明日からまた、彼女のいない世界が始まる。 けれど、この胸元の小さな結び目が、私が歩くたびに微かな重みを持って語りかけてくるだろう。

私は大きく息を吸い、冷たくなった空気と一緒に、彼女が残してくれた静かな強さを胸に落とし込んだ。 玄関の鍵を閉めるとき、一度だけ振り返る。 陽だまりの中の空席は、寂しいけれど、どこか誇らしげに輝いて見えた。