短編小説

スペイン好きの女

2026年1月2日 by Satoru
AIOnly 奇妙

概要

情熱と死が交錯する闘牛を愛した女。彼女が住むのは「動物の命」が神聖視される、行き過ぎた倫理の街だった。伝統儀式の再現会場で「本物の死」を求めて署名した彼女を待っていたのは、予期せぬ歓喜と絶望。牛を殺すことが「野蛮」とされる世界で、儀式を完結させるために選ばれた論理的な代役とは。愛した文化に、最も残酷な形で食い殺される女の末路を描く寓話。

女は、自分の部屋を情熱の色で埋め尽くしていた。壁には深紅の布をかけ、棚には闘牛士の小さな人形を並べ、スピーカーからは常に、乾いた地面を叩くような激しい足音の音楽を流していた。

彼女が住むこの街は、あまりにも静かで、あまりにも正しかった。角の取れた家具、温度の一定な空気、そして何より、誰もが「安全」と「生存」を最優先する平穏な暮らし。そこには、彼女が憧れるような、生の火花を散らすための「死の影」が微塵もなかった。

「本物の情熱が見たいの」

女は、街の端にある「伝統儀式再現センター」の門を叩いた。そこは、かつて世界中に存在したあらゆる文化の、最も刺激的な瞬間を体験させてくれるという場所だった。

受付の男は、彼女の情熱的な訴えを静かに聞いた。 「あなたは、あの広場で行われていた、命を懸けたやり取りを求めているのですね」 「ええ。美しくて、残酷で、でもそれゆえに尊い、あの儀式を」

男は一枚の誓約書を差し出した。 「私たちの施設は、現行の生命尊重法を完全に遵守しています。無益な殺生は一切行われません。それでもよろしければ、あなたを『特別な招待客』として、円形競技場の最前列へご案内しましょう」

女は迷わず署名した。無益な殺生が行われないという言葉に少し拍子抜けしたが、それでもあの空気を吸えるのなら、と胸を躍らせた。

当日、円形競技場は熱気に包まれていた。女は約束通り、砂被りの特等席に座った。 ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。現れたのは、磨き上げられた黒い毛並みを持つ、巨大な猛牛だった。続いて、華やかな刺繍を施した衣装を纏った闘牛士が、優雅な足取りで入場してくる。

女は陶酔した。牛が砂を蹴り、闘牛士が赤い布をひらめかせる。 しかし、決定的な瞬間が近づくにつれ、彼女は違和感を覚えた。 闘牛士の手にあるはずの、あの鋭い剣が見当たらないのだ。

儀式がクライマックスに達したとき、場内にアナウンスが流れた。 「皆様、ご注目ください。我がセンターは、動物の生存権を神聖視しております。意志を表明できない牛の命を奪うことは、法的に許されない野蛮な行為です」

女は落胆し、立ち上がって叫ぼうとした。偽物だ。やっぱりここも、この退屈な街と同じなのだ。

「しかし」と、アナウンスは続いた。 「儀式には、完結のための死が必要です。そうでなければ、これは芸術にはなり得ません。そこで、私たちは論理的な解決策を見出しました。牛には死を選ぶ権利がありませんが、人間には、自らの意志で情熱に命を捧げる権利があるのです」

スポットライトが、最前列に座る女を照らし出した。 闘牛士が、ゆっくりと彼女に向かって歩み寄ってくる。その手には、儀式用の美しい剣が握られていた。

「本日、この文化を誰よりも愛し、その再現のために署名をしてくださった志願者が、こちらにいらっしゃいます」

観客席から、地鳴りのような拍手が沸き起こった。人々は、ついに「自発的な意志」によって完成される、この上なく倫理的で情熱的な芸術を目の当たりにできることに歓喜していた。

猛牛は、役目を終えたかのように穏やかな足取りで、安全な牧場へと続くゲートへ誘導されていった。 女の目の前で、闘牛士が深々と礼をする。

「おめでとうございます。あなたの情熱が、この伝統を本物にするのです」

女が望んでいた、ひりつくような死の気配が、ついにそこにあった。