短編小説

七転び六起き

2026年1月2日 by Satoru
AIOnly 奇妙

概要

七回転んで八回起きる。その美徳が「罪」となった街。 泥を舐め、立ち上がろうとした男を監査官は制止した。 「立ち上がれば、あなたの苦難は清算され、価値はゼロになる」 克服した過去は「無」に等しく、這いつくばる絶望だけが崇高な資産として評価される歪んだ論理。 立ち上がらないことが最大の社会貢献とされる世界で、男は「不屈の展示物」として、永遠の静止を強要される。

その男は、人生で七度目の破滅を迎えていた。 一度目は事業の失敗、二度目は理不尽な訴訟、三度目は大病。そのたびに男は泥を舐め、歯を食いしばって立ち上がってきた。世間は彼を「不屈の象徴」と呼び、その再起の記録は、市の「生存価値記録簿」に克明に刻まれていた。

現在、男は七度目の転倒の真っ最中だった。無一文になり、住む家を失い、雨の降る路地裏で文字通り地面に這いつくばっている。 だが、男の目は死んでいなかった。 「あと一度だ。あと一度立ち上がれば、私は伝説になる」 ことわざにある「七転び八起き」を体現するためには、この七度目の転倒から立ち上がらなければならない。そうすれば、計八回の「起き」が記録され、彼は「完成された人間」として、市の永久保存区域へ招待されるはずだった。

男が震える腕に力を込め、泥まみれの地面を押し返そうとしたその時。 「おっと、動かないでください。そのまま、そのまま」 穏やかな声が響いた。見上げると、市の「価値監査官」が立っていた。監査官は手元の端末を操作しながら、満足そうに男を見下ろしている。

「素晴らしい。記録通り、七度目の転倒ですね」 「ああ……今、立つところだ。見ていろ、私の八度目の再起を」 男が膝を立てようとすると、監査官は慌ててそれを制した。 「いけません! 今立ってしまったら、あなたの価値はゼロになってしまう」

男は困惑し、動きを止めた。 「どういう意味だ? 七回転んだら、八回起きるのが美徳だろう」 監査官は、哀れみを含んだ笑みを浮かべて首を振った。 「それは計算のできない時代の古い迷信ですよ。いいですか、現在の『存在均衡法』に基づけば、『起き上がる』という行為は『転倒』という負の事象を打ち消す、いわば清算作業に過ぎません」

監査官は端末の画面を男に見せた。 「あなたは過去に六回、見事に立ち上がった。それはつまり、六回の負債を六回の労働で返済し、差し引きゼロに戻したということです。立ち上がってしまえば、そこには『何もなかった状態』しか残りません。克服された苦難は、もはや苦難ではないのです」 「……だが、私は七回、転んだんだぞ」 「ええ、そこが肝心なのです」 監査官は声を弾ませた。 「今、あなたは七度目の転倒の中にいる。しかし、まだ起き上がっていない。つまり、あなたの人生には今、一回分の『未清算の苦難』が残されている。この『マイナス一』こそが、あなたの重みであり、価値なのです。立ち上がってプラスマイナスゼロの『空っぽな人間』に戻るつもりですか?」

男は地面に這いつくばったまま、自分の泥だらけの手を見つめた。 「立ち上がらなければ……私は価値があるのか?」 「その通り。六回の再起という実績を持ちながら、七度目の絶望を保持し続けている。これこそが最も密度の高い人生のモデルケースです。市はあなたを『七転び六起き』の聖遺物として認定しました。あなたは、立ち上がらないことで永遠の敬意を勝ち取ったのです」

男の周囲に、いつの間にか透明な強化ガラスの壁が設置され始めた。路地裏はまたたく間に「不屈の不倒記念館」へと改装されていく。 男は、もう腕に力を入れる必要がないことを悟った。ここでは、泥の中に顔を埋めていることこそが、最高ランクの社会貢献なのだ。

数日後。 ガラスケースの中に展示された男は、ふと疑問を抱いた。 自分を賞賛する観客たちは皆、ガラスの向こう側で真っ直ぐに立っている。 監査官の論理が正しいのなら、あそこに立っている人々は、苦難をすべて清算してしまった「空っぽで無価値な人間」のはずだ。

しかし、展示品となった男がどれだけ空腹に耐えかね、泥水を啜り、惨めに震えていても、外側の「無価値な人々」は温かいコーヒーを飲みながら、優雅に彼を観察している。 男はたまらず、通りかかった監査官に尋ねた。 「なあ、外にいる連中はいいのか? あいつらは皆、立ち上がったままの『ゼロ』なんだろう?」

監査官は、男の足元に高級な防腐剤を撒きながら、不思議そうに眉を寄せた。 「何を言っているんです。彼らは一度も転んだことがないんですよ。ゼロから一度も動いていない、純粋な消費者です。あなたのような『価値あるマイナス』を鑑賞するために、彼らは高い入場料を払っているんですから」

男は、自分が世界で唯一の、そして最も重厚な「負債」であることを誇らしく思おうとした。 だが、その時。 背中の痒みを我慢できず、男が無意識に少しだけ体を浮かせてしまった。 「あ! 動いたぞ!」 観客の一人が叫んだ。 「価値が減った! 今、再起の兆候が見えたぞ! 詐欺だ、返金しろ!」 怒号が飛び交い、監査官が血相を変えてガラスを叩いた。 「動くな! 立ち上がるなどという無責任な真似をして、あなたの希少性を汚すつもりか!」

男は慌てて、再び深く泥の中に顔を沈めた。 二度とピクリとも動かないよう、全身の筋肉を硬直させる。 完璧に動かなくなった男を見て、観客たちは再び感嘆の声を漏らし、カメラのシャッターを切った。 男は暗い泥の匂いの中で、静かに考えた。

このまま永遠に起き上がらなければ、自分はいつか、八度目の再起を果たす以上の「完成」に辿り着けるのだろうか。 少なくとも、現在の計算式によれば、彼が死ぬまでこの泥の中にいれば、その人生は歴史上、最も「深い」ものとして記録されるはずだった。