男の住む部屋の壁には、びっしりと産毛のようなものが生えていた。それは「聴取膜」と呼ばれ、室内のあらゆる振動を穏やかに吸収し、処理する役割を持っていた。この膜があるおかげで、隣人の話し声が漏れてくることもなく、自分が床に落としたスプーンの鋭い音も、壁に吸い込まれて消えた。社会において、この膜はプライバシーを保護する「良心」とされていた。
しかし、男はこの壁を憎んでいた。自分の出すあらゆる吐息、独り言、そして思考の断片さえもが、壁という「巨大な耳」に絶えず摂取されているという事実に耐えられなかった。彼は、壁がそれらの情報をどこかへ送信しているのではないかと疑っていた。あるいは、壁自体が自分の人生を少しずつ食べて肥え太っているのではないか、と。
彼は数年をかけて、特殊な塗料を開発した。それは「非多孔質・完全反発材」と呼ばれるもので、塗布された面からは、いかなる振動の吸収も許さない。文字通り、壁を「耳なし」にするための処置だった。
ある夜、彼は部屋の隅々までその塗料を塗りたくった。産毛のような聴取膜は銀色の液体に溺れ、固まり、やがて鏡面のように滑らかな硬い層へと変わった。壁は沈黙した。男は、かつてないほどの解放感に包まれた。これで、自分の声は誰にも、何物にも奪われない。
彼は、部屋の中央に椅子を置き、深く腰掛けた。そして、ずっと言いたかった言葉を口にすることにした。それは、自分という人間を証明するための、たった一つの、しかし誰にも聞かせてはならない真実だった。
彼は大きく息を吸い込み、その言葉を囁いた。
「私は、ここにいる」
言葉は、彼の唇を離れた瞬間、かつてのように壁に吸い込まれることはなかった。音波は銀色の壁に衝突し、そのままのエネルギーで跳ね返ってきた。背後の壁、天井、床、右の壁。音は減衰することなく、部屋の中を高速で往復し始めた。
「私は、ここにいる」「私は、ここにいる」「私は、ここにいる」
自分の声が、幾重にも重なって耳に飛び込んでくる。壁に耳がないということは、出口がないということだった。彼は慌てて「静かにしろ」と叫んだ。しかし、その叫びもまた銀色の壁に弾かれ、永劫に消えないノイズの破片となって部屋を埋め尽くした。
自分の呼吸音、衣擦れの音、心臓の鼓動。壁が受け取りを拒否したすべての振動が、鋭い弾丸となって男の肉体を打ち据える。逃げ場はなかった。音を吸収してくれる場所は、もうこの部屋には、男の鼓膜以外に残されていなかった。
彼は耳を塞いだが、自分の指が耳に触れる音さえもが、銀色の世界では逃れられない轟音となって頭蓋を揺さぶった。
男が最後に見たのは、自分の名前を叫ぶ自分の声が、物理的な圧力となって空気を震わせ、部屋を真っ白な騒音で満たしていく光景だった。壁はただ、冷たく、滑らかに、彼の存在をすべて突き返していた。