短編小説

朱い箱の呼吸

2026年1月3日 by Satoru
AIOnly 泣ける

概要

5年間、固く口を閉ざしたままの祖母の重箱。手のひらの熱で蓋が開いた瞬間、底に残されていたのは反抗期の私への「祈り」だった。失った後に知る深い愛と、静かな涙が溢れる再生の物語。

祖母がこの世を去ってから、五度目の冬が巡ってきました。

奥まった納戸の隅、埃を被った桐箱の中に、それは鎮座していました。輪島塗の四段重。かつて正月の朝、祖母が三日三晩かけて仕込んだ色とりどりの馳走が並び、家族の笑い声をその内に閉じ込めていた漆器です。

しかし、葬儀のあの日から、この重箱は固く口を閉ざしたままでした。

父が力任せに引いても、母が蒸しタオルで温めても、その継ぎ目は微塵も動きませんでした。まるで、主を失った悲しみを漆の膜で塗り固めてしまったかのように。いつしか親戚たちの間では「おばあちゃんが思い出を独り占めしているんだ」と、冗談混じりの諦めが語られるようになっていました。

私は一人、冷え切った台所のテーブルにその重箱を置きました。

窓の外では、細かな雪が音もなく庭の石を白く染めています。かつて祖母が、ひび割れた指先に絆創膏を貼りながら、黒豆の皺を一つひとつ丁寧に気にしていた場所です。彼女の手はいつも、出汁の香りと、少しだけ冷たい水の匂いがしていました。

私は、使い古されたヤカンに火をかけました。

しゅんしゅんと白い湯気が立ち上り、窓ガラスを曇らせていきます。私は不意に、幼い頃の記憶を思い出しました。祖母はいつも、重箱を広げる前に、その朱い蓋を愛おしそうに撫でていたのです。

「道具にもね、呼吸をさせてあげなきゃいけないんだよ」

祖母の、掠れた、けれど温かな声が耳の奥で蘇ります。

私はお湯をボウルに張り、重箱の底を静かに浸しました。そして、自分の両手でその側面を包み込みます。漆の冷たさが手のひらの熱を吸い取っていきます。私はただ、自分の体温が箱の奥底に届くのを待つように、じっとしていました。

時計の針が刻む音。冷蔵庫の低い唸り。 そして、かすかな「音」がしました。

――ピシッ。

それは、冬の夜に氷が割れるような、あるいは誰かが小さく溜息をついたような、繊細な音でした。

指先に力を込めると、あんなに頑なだった蓋が、嘘のように滑らかに持ち上がりました。

一段目。二段目。三段目。 そして最後の一段を開けたとき、私は息を呑みました。

そこには、何も入っていませんでした。 いえ、正確には、料理の代わりに「時間」が詰まっていました。

重箱の底には、祖母の丁寧な仕事ぶりが刻み込まれていました。長年の使用で少しだけ薄くなった漆の肌。四隅に残る、菜箸の先が触れたのであろう小さな傷跡。そして、かすかに鼻をくすぐる、甘い栗きんとんの残り香。

一番下の段の底に、小さく折り畳まれた紙切れが、一枚だけ張り付いていました。

震える指でそれを広げると、そこには祖母の、お世辞にも上手とは言えない、けれど力強い文字でこう記されていました。

『来年は、もう少しお砂糖を控えましょう。あの子が健康でいられますように』

その「あの子」が、当時反抗期で祖母の料理を避けていた私を指しているのだと、気づくのに時間はかかりませんでした。

視界が急に熱を帯び、歪んでいきました。

祖母が一人でこの重箱を閉じ、仕舞い込んだあの日。彼女は未来の正月を思い描き、まだ見ぬ健康を祈っていた。開かなかったのは、箱が壊れていたからではありません。彼女がそこに込めた「祈り」があまりに深く、重かったからです。

涙が一滴、朱い漆の上に落ち、真珠のように弾けました。

私はもう一度、重箱の側面を撫でました。今度は冷たくありません。私の手のひらの熱と、祖母が遺した愛情が混ざり合い、箱は確かな温度を持ってそこにありました。

「おばあちゃん、来年は私が作るね」

言葉にすると、胸の奥に溜まっていた冷たい塊が、ゆっくりと溶けていくのを感じました。

外の雪はいつの間にか止み、雲の切れ間から、透き通った冬の日差しが台所に差し込んできました。開かれたままの重箱は、その柔らかな光を全身に受け、静かに、深く、呼吸をしているようでした。