概要
「おめでとう、完治です」その祝福が、彼にとっては処刑宣告だった。地面が薄膜でできた街では、反重力松葉杖を持つ「怪我人」こそが特権階級。暗淵の上で自由を謳歌する男だったが、ハイテクな杖が役目を終えて空へ飛んでいったとき、健康を取り戻したはずの足が残酷な牙を剥く。完璧なロジックが導き出す、救いのない結末。
松葉杖が飛んでった
その街の地面は、あまりにも脆い薄膜でできていた。住人たちはみな、羽毛のように軽い素材の服をまとい、息を潜めるようにして暮らしていた。少しでも強い衝撃を与えれば、足元の膜はたやすく破れ、底の見えない暗淵へと真っ逆さまに落ちてしまうからだ。
男はこの街で、もっとも自由を謳歌している一人だった。彼は一年前の事故で両足の骨を砕いて以来、行政から支給された「浮揚式松葉杖」を使用していた。その杖は、内蔵された反重力装置によって、使用者の体重を九割カットする機能を持っていた。
松葉杖を脇に抱えている限り、男の足取りは誰よりも軽かった。他の住人たちが薄氷を踏むような思いでじりじりと歩く横を、彼は優雅なストライドで跳ねるように移動した。本来なら不幸であるはずの「怪我人」という立場が、この街では唯一の特権階級だった。
松葉杖には、高度な生体センサーが組み込まれていた。ギプスの中で骨がどれだけ再生したか、筋肉の強度はどれほど戻ったかを、二十四時間体制で監視しているのだ。
ある日の午後、男は街の中央にある空中庭園を散歩していた。眼下には雲が流れ、足元の膜は陽光を浴びて真珠色に輝いている。彼はわざと大きくステップを踏み、その浮遊感を楽しんだ。
その時、右側の杖から電子音が鳴った。 「おめでとうございます。骨密度の回復が規定値に達しました」 杖に埋め込まれたスピーカーから、無機質な合成音声が流れた。 「リハビリテーションの全行程が完了しました。本機は速やかに回収モードへと移行します」
男は慌てて杖を強く握りしめた。 「待て、まだ少し痛むんだ。それに、今ここで離されたら……」
しかし、松葉杖に慈悲はなかった。補助器具としての役割を終えた瞬間、それは自律飛行するドローンへと変貌した。男の手を振り切るようにして、二本の杖はシュルシュルと音を立てて空高くへと舞い上がった。
「返せ! まだ必要だ!」 男は叫び、飛び去っていく杖を追いかけようとして、力強く地面を蹴った。
完治した彼の両足には、かつてないほどの筋力が漲っていた。一年前よりも頑丈に、理想的な密度で結合した骨が、彼の体をしっかりと支えていた。
男が力いっぱい足を踏み出した瞬間、薄膜の地面は、健康そのものの重圧に耐えきれず、景気よく弾けた。
真っ逆さまに落ちていく男の視界の端で、役目を終えた二本の松葉杖が、どこまでも澄み渡る空の彼方へ、軽やかにもつれ合いながら飛んでいくのが見えた。