駅のホームには、自分一人しかいなかった。滑り込んできた電車の窓の向こうにも、人影は見えない。 扉が開く。踏み込んだ瞬間、男は強い衝撃に突き飛ばされた。 「うわっ」 よろめいた背中を、誰かの硬い肘のようなものが強かに打つ。車内は無人のはずだった。しかし、そこには濃密な熱気と、湿った衣服の匂いが充満している。 男は通路を進もうとしたが、目に見えない肉体の壁に阻まれた。誰かの足を踏みつけ、誰かの肩とぶつかり合う。謝罪を口にしても、返ってくるのは無数の衣擦れの音と、押し殺したような吐息だけだ。 吊り革を掴もうと手を伸ばすと、そこには既に別の手が重なっていた。温かく、確かに弾力のある皮膚の感触。慌てて手を引くが、吊り革は誰かに握られたまま、空中で不自然な角度に固定されている。 窓に映る自分の姿を見た。実体を持ってそこに存在しているのは、自分だけだった。 電車が次の駅に止まる。ホームには、一人の女が立っていた。彼女は空っぽの車内を見て、安堵の表情を浮かべる。 「空いててよかった」 彼女が足を踏み入れた瞬間、その輪郭が陽炎のように揺らぎ、消えた。 直後、男の足の甲に凄まじい衝撃が走る。彼女のヒールが突き刺さったのだ。 「痛い!」 男が叫ぶと、誰もいないはずの空間から冷ややかな声が響いた。 「ちょっと、騒がないでいただけますか。せっかくの静かな車内なのに」 声の主は見えない。男は痛みに耐えながら、隅の方へと自分を追いやっていく。 この街の住人にとって、誰かの視界を遮ることは、物理的な暴力よりも酷い罪とされていた。洗練された者ほど自分を消す術に長け、そうした配慮の積み重ねが、この完璧な景観を保っているのだ。 男は自分の手を見つめた。指先から徐々に、背景のシートの模様が透けて見え始めている。 ようやく自分も、この洗練された世界の一部になれる。誰の邪魔にもならず、誰の視界も汚さない、清らかな存在に。 男の体が完全に透明になったその時、不意に強大な重みが彼の膝の上にのしかかった。 新たに乗り込んできた、まだ「目が見える」無作法な男が、彼の上にどっかと腰を下ろしたのだ。 「最高だ。これだけ空いていれば、足を伸ばして座れるぞ」 透明になった男は、その重みに骨が軋む音を聞きながら、声なき悲鳴を上げた。しかし、彼がどれほど苦痛に顔を歪めても、上に座っている男には、そこにはただ「清潔で空っぽな座席」があるようにしか見えなかった。
短編小説