あらすじ(保護者向け解説)
本作は、ダム建設によって水底に沈みゆく運命にある山間の集落を舞台にした物語です。主人公の小学6年生、蓮(レン)は、立ち退きを頑なに拒む元炭鉱夫の祖父との生活を通して、「効率化や未来のために切り捨てられていく過去の記憶」と向き合います。 歴史の不可逆性、大人の社会が抱える矛盾、そして正解のない選択肢の前で葛藤(かっとう)する少年の姿を描きます。安易な解決を提示せず、読者である子どもたち自身に「自分ならどうするか」「何を守るべきか」を深く問いかける、倫理観と多角的な視点を育むための物語です。
本文
この谷では、夜になると音が湿る。 川のせせらぎも、風が木々を揺らす音も、すべてが重たく湿った空気に吸い込まれていくようだ。そんな夜、祖父は決まって古い鉱石ラジオを持ち出してくる。
雑音しか聞こえないはずの、アンティークのような機械。祖父はそれにイヤホンを差し込み、目を閉じて、じっと何かに耳を澄ませている。その背中は、庭にある苔(こけ)むした岩のように動かない。
「じいちゃん、何が聞こえるの」 僕が尋ねても、祖父は小さく首を横に振るだけだ。祖父の指先は、石炭を掘り続けてきた人のそれらしく、節くれ立ち、黒いしわが深く刻まれている。
僕たちの住むこの集落は、あと半年でダムの底に沈むことが決まっていた。ほとんどの家はもう空き家で、窓には板が打ち付けられている。新しい町への引っ越しを拒んでいるのは、僕の家だけだった。
学校では、ダムができれば下流の町が洪水から守られるし、新しい電気も生まれると習った。それは「正しい」ことなのだと、先生も、役場の人たちも言う。 でも、祖父は「ここには、置いていっちゃならんもんがある」としか言わなかった。
ある日、僕は祖父の部屋で、古い革表紙の日記を見つけた。日付は五十年も前のものだ。 ページをめくると、インクが滲(にじ)んだ文字で、炭鉱での事故の記録が綴(つづ)られていた。落盤事故。生き埋めになった仲間たち。そして、救助を断念し、坑道の入り口を塞(ふさ)ぐという苦渋の決断を下したのが、若き日の祖父だったこと。
『彼らの声が、まだ石の隙間(すきま)から聞こえる気がするのだ』
日記の最後の行を読んだとき、心臓が冷たい手で掴(つか)まれたような気がした。祖父が毎晩ラジオで聴こうとしていたのは、電波に乗った放送ではなく、地の底に眠る記憶の声だったのかもしれない。
季節外れの台風が直撃した夜、事件は起きた。 激しい雨音が屋根を叩く中、ふと目を覚ますと、祖父の布団がもぬけの殻だった。嫌な予感が背筋を駆け上がった。
まさか。
僕は青いアノラックを羽織り、懐中電灯を掴んで嵐の中へと飛び出した。風雨が僕の体を押し戻そうとする。目指すのは、集落の外れ、今はもう誰も近づかない旧坑道の入り口だ。
泥だらけになりながら山道を登りきると、封鎖された鉄格子の向こうに、ぼんやりとした光が見えた。祖父だった。祖父は鉱石ラジオを胸に抱き、崩れかけた坑道の奥に向かって、何かを叫んでいた。
「じいちゃん!」 僕の声は暴風にかき消される。その時、ダムの放流を知らせるサイレンが、谷底から不気味な和音で鳴り響いた。それはまるで、時代の変化を告げるファンファーレのように、残酷なほど大きく響き渡った。
僕たちは、ずぶ濡れになって家に戻った。 祖父は何も語らなかった。ただ、あの鉱石ラジオだけは、坑道の入り口に置いてきたという。 「もう、十分に聞いた」 そう呟(つぶや)いた祖父の声は、今まで聞いたどの声よりも枯れていて、それでいて穏やかだった。
翌朝、台風一過の空は嘘(うそ)のように晴れ渡っていた。 谷は静けさを取り戻していた。けれど、何かが決定的に変わってしまったことを、僕は肌で感じていた。
祖父は、立ち退きの書類に判を押した。
僕たちは、もうすぐ水底に沈む故郷を見下ろす高台に立った。朝の光が、谷を黄金色に染めていく。美しい景色だった。でも、その美しさの下には、語られなかった歴史や、誰かの犠牲が埋まっていることを、僕はもう知っていた。
大人の世界は「正しいこと」と「仕方ないこと」でできている。でも、その隙間(すきま)からこぼれ落ちていく大切なものを、僕はこれから先、どうやって拾い集めていけばいいのだろう。 祖父の隣で、僕はポケットの中の小さな石ころを、強く握りしめた。
あとがき
この物語に「正解」はありません。ダムができることで救われる命もあれば、沈んでしまう大切な記憶もあります。世界は、そうした割り切れない複雑さでできています。 11歳のあなたは、もう大人の世界の入り口に立っています。これから先、簡単に答えが出せない問題にたくさん出会うでしょう。その時、すぐに「正しい・間違い」と決めつけず、立ち止まって考え込む強さを持ってほしい。沈黙の中に隠された声に耳を澄ませる、そんなあなたの心の柔らかさを、私は信じています。



