【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
今夜ほど、人生で長い夜はなかっただろう。あの悪夢のような時間が、電波に乗って全米を駆け巡ったのだ。まだ心臓が喉元で鼓動しているような気がする。手足の震えが止まらず、ペンを握る指先が僅かに震えている。
日曜の夜は、いつも家族でラジオを囲むのが常だった。特に、今夜は人気番組「メルクリ・シアター・オン・ジ・エア」が流れる日だった。ジェニーはソファで刺繍をしながら、トミーは絨毯の上で積み木を崩しながら、そして私は愛用のロッキングチェアに身を預け、穏やかな秋の夜を楽しんでいた。ラジオからは、軽快なダンスミュージックが流れ、部屋には晩御飯の残り香と、暖炉の薪がはぜる音が満ちていた。外は冷たい秋風が吹き荒れているが、この家の中だけは、いつも変わらぬ平和があった。
午後8時過ぎだったか、突然音楽が途切れた。一瞬の静寂の後、アナウンサーの声が響いた。「皆様にお知らせします。ニューヨーク市にあるフェダーデッド宇宙研究所から、異常な出来事に関するニュースが入りました。」速報。このところ欧州の情勢は不穏だし、また何か不吉な知らせだろうか、と私は身構えた。だが、それは私の想像を遥かに超えるものだった。
その声は次第に緊迫感を増していった。火星からのガス状の爆発、ニュージャージー州グローブズミルへの奇妙な隕石の落下、そしてその中から現れた「何か」。アナウンサーは、興奮を抑えきれないかのように、しかし、事実を淡々と伝えるかのように話し続けた。信じられない話だ。火星人? ジェニーは不安げな目で私を見た。トミーはまだ遊びに夢中だったが、妻の手は刺繍を止めていた。
「この物体からは、まるで毒ガスのようなものが放出され…」
私はごくりと唾を飲み込んだ。第一次大戦の毒ガス戦の記憶が蘇る。まさか。あの時のような恐怖が、今、このアメリカに?
ラジオは、グローブズミルからの中継と称して、悲鳴と混乱、そして奇妙な機械音を流し始めた。それはまさに地獄絵図だった。軍隊が出動し、戦車が動員され、毒ガスを吐く化け物と戦う兵士たちの声。そして、兵士たちが次々と倒れていく様子が、生々しい効果音と共に伝わってきた。
私の心臓は激しく脈打っていた。これは、本物だ。そう直感した。ラジオは、いつも真実を伝えてきたではないか。政府機関が公式に介入し、戒厳令が発令され、避難命令が出されているとアナウンスされた時、私の疑念は完全に吹き飛んだ。妻は真っ青な顔で、トミーを抱きしめていた。
「フランク、どうすればいいの…?」
彼女の声は震えていた。私自身も混乱していたが、一家の主として冷静でいなければならなかった。窓の外を見る。普段なら静かな通りが、ざわつき始めているような気がした。遠くで車のクラクションが鳴り響き、複数のサイレンの音が近づいてくる。隣家の明かりが次々と消え、玄関のドアがバタバタと開閉する音が聞こえた。人々の叫び声。それはまさしく、ラジオが伝えている混乱と重なっていた。
「準備するんだ、ジェニー。すぐにここを出よう」
そう告げると、妻は弾かれたように動き出した。水や食料、毛布、そして大切な写真の束をカバンに詰め込む。トミーは、普段とは違う母親の様子に怯えているようだった。私もコートを羽織り、家族の身を守るために、何か武器になるものがないかと家中を見回した。無意味なことだとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
ラジオからは、ニューヨークが火星人の攻撃を受けているというニュースが流れていた。毒ガスがマンハッタンに到達した、と。マンハッタンは、ここからすぐそこだ。私たちはもう、逃げ場がないのではないか。外に出れば、あの化け物たちが、そこにいるのではないか。恐怖が私の全身を締め付けた。
家の外に出ると、それは想像以上の光景だった。通りには車がひしめき合い、誰もが我先にとエンジンを唸らせていた。人々はパジャマ姿のまま、子供の手を引き、路上を走っていた。何人かの男は、銃を手に空を睨んでいた。遠くで、何かが燃えているような赤みがかった光が見えた。爆発音。私はトミーを腕に抱き、ジェニーの手を強く握りしめた。どこへ逃げればいいのか。北か、南か、それとも西へ向かうべきか。空には、未だ月と星が輝いていたが、それらがいつ、あの不気味な光線に消されるのかと、私は恐怖で喉がカラカラになった。
その時だった。車の群れの向こうから、一台のパトカーがやってきた。拡声器を手に、警官が叫んでいる。
「落ち着いてください! 落ち着いて! これは…これはラジオドラマです! 皆さん、これはドラマです!」
私の耳には、その言葉がすぐには届かなかった。ドラマ? 今、私が見ているこの光景が? 周囲の人々も、最初は警官の言葉を信じないようだった。怒号が飛び交う。「嘘を言うな!」「お前たちもグルなのか!」
しかし、警官は何度も、同じ言葉を繰り返した。「オーソン・ウェルズによるハロウィンの企画です! 混乱を起こすつもりはありませんでした!」
ハロウィンの企画。私の頭の中で、その言葉が何度も反芻された。ハロウィン。私はラジオを消し忘れていたことに気づいた。パトカーが近づくにつれて、徐々にラジオからの音声が小さくなり、ようやく、私の耳は警官の言葉を理解し始めた。あの凄まじい放送は、全て、作り物だったというのか。
脱力感に襲われ、その場に座り込みそうになった。安堵と、怒りと、そして何よりも虚脱感。ジェニーは私の隣でへたり込み、トミーを抱きしめて泣き始めていた。街の喧騒は、すぐに収まることはなかった。何人かはまだ半信半疑で、それでも多くの人々が、混乱と、疲労と、途方に暮れた顔で立ち尽くしていた。
私は家に帰り、再びラジオのスイッチを入れた。すると、今度はオーソン・ウェルズ本人の声が聞こえてきた。「私たちは、ハロウィンの前夜に、単なる演劇的な興奮を生み出すつもりでした…」彼はそう語っていたが、その言葉はもはや、私の心には響かなかった。
私たちは、この数時間で、自分たちがどれほど脆弱な存在であるかを思い知らされた。たった一本のラジオドラマが、これほどまでに全米を、私を、そして私の家族を恐怖のどん底に突き落とすことができるとは。電波が持つ力は、想像を遥かに超えていた。
今、私の部屋は再び静寂に包まれている。トミーは疲れて眠ってしまった。ジェニーは、呆然としたまま、まだソファに座っている。私も、この日記を書き終えたら、きっとすぐに眠りにつくだろう。だが、この夜の悪夢は、きっと私の記憶に長く刻みつけられるはずだ。そして、明日から、私たちは、世界を、情報を、そしてこのラジオを、以前と同じようには見られないだろう。
参考にした出来事
1938年10月30日(西暦): ラジオドラマ『宇宙戦争』の放送
解説: アメリカのCBSラジオで、オーソン・ウェルズが演出・主演した『マーキュリー・シアター・オン・ジ・エア』で放送されたラジオドラマ。H.G.ウェルズの小説『宇宙戦争』を、あたかも実際のニュース速報であるかのように演出したため、全米各地で火星人による侵略だと信じ込み、大規模なパニックを引き起こした。