【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
フィラデルフィアの朝は、刺すような冷気に包まれていた。ペンシルベニア・コンベンションセンターの重厚な扉を抜けると、外の喧騒とは隔絶された、奇妙なほどに乾燥した静寂が私を迎え入れた。空調の微かな唸りと、絶え間なく吐き出される電算機の廃熱。そこには、二十世紀という時代が積み上げてきた知性の結晶が、黒い筐体の中に潜んでいた。
我々IBMのチームが「ディープ・ブルー」と名付けたその怪物は、数百万もの歯車が噛み合う時計のように、冷徹な論理の火花を散らしている。だが、その対局台の向こう側に座る男、ガルリ・カスパロフの存在感は、それを上回る圧倒的な熱量を放っていた。「バクーの野獣」と称される世界王者は、その鋭い眼光だけで回路を焼き切ってしまいそうなほどに、剥き出しの闘志を漲らせていた。
午後三時、歴史を刻む最初の一手が指された。カスパロフが白を持ち、d4とポーンを進める。彼は自信に満ち溢れていた。これまでもコンピュータは彼に挑んできたが、その都度、人間の直感と創造性の前に膝を屈してきたからだ。盤上は、幾何学的な美しさを伴って展開していく。しかし、今日のディープ・ブルーは、これまでのどの機械とも違っていた。
中盤、カスパロフが仕掛けた。人間ならば動揺し、安全な道を選んでしまうような、複雑極まりない局面の混迷。だが、ディープ・ブルーは迷わない。一秒間に一億手という絶望的なまでの演算能力が、可能性の海を凪のように静めていく。モニターに映し出される評価値は、無機質な数字の羅列に過ぎないが、私にはそれが、巨大な鉄の門がゆっくりと閉まっていく音のように聞こえた。
カスパロフの表情から余裕が消えた。彼は眉間に深い皺を刻み、何度も頭を抱え、自身の指先を凝視した。炭素ベースの脳細胞が、シリコンの演算素子に追い詰められていく。彼が放つ「人間特有の罠」や「心理的な揺さぶり」は、感情を持たぬ機械という深淵に吸い込まれ、霧散していく。
そして、その瞬間は訪れた。三十七手目、ディープ・ブルーが指したルークの動きは、会場を埋め尽くした観客と、何より王者自身を凍りつかせた。それは単なる効率的な一手ではなく、まるで盤上全体の未来を完璧に見通したかのような、冷酷で美しい一手だった。
カスパロフの右手が震えていたのを、私は見逃さなかった。彼は何度か椅子の位置を直し、盤面を睨みつけたが、やがてその表情に深い絶望が影を落とした。投了。世界王者が、機械に頭を下げた。
会場にいた誰もが、自分たちが立っている地面が音を立てて崩れ去るような感覚に陥ったに違いない。拍手はまばらで、代わりに重苦しい驚愕が空気を支配した。一九九六年二月十日。この日、人類は、自身が作り出した道具に「思考」の領域で追い抜かれるという、後戻りのできない一線を越えたのだ。
控室に戻るカスパロフの背中は、心なしか小さく見えた。我々開発チームは、勝利の喜びに沸き立つというよりは、自分たちが解き放ってしまったものの正体に、ただただ畏怖の念を抱いていた。モニターの中では、ディープ・ブルーが次の命令を待つカーソルを点滅させている。その規則正しい明滅は、新時代の到来を告げる、静かな、だが力強い鼓動のように思えた。
参考にした出来事:1996年2月10日、IBMのチェス専用スーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」が、時の世界王者ガルリ・カスパロフと対戦し、全6局の第1局で勝利を収めた。これは、公式の競技条件下において、コンピュータが世界王者を破った歴史上初めての対局となった。