【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
昨夜から降り続いていた冷たい雨は、朝には湿った霧へと姿を変え、五番街の喧騒を白く包み込んでいた。三月のニューヨークは、春を待つ忍耐を試すような冷え込みが残る。私はコートの襟を立て、玩具見本市の会場となるトイ・センターの重厚な回転扉を押し抜けた。建物の中に充満しているのは、男たちの吐き出す安煙草の匂いと、新製品の塗装が放つ独特の化学臭、そして景気の良し悪しを占おうとする切実な熱気だ。
バイヤーという私の職務は、子供たちの無邪気な夢をドル袋に換算することにある。これまで何千というテディベアの瞳を覗き込み、何万というブリキの鉄道模型の車輪を転がしてきた。だが、マテル社のブースに辿り着いた瞬間、私は自分の足が床に縫い付けられたかのような錯覚に陥った。そこには、これまでの玩具業界の常識を根底から覆す「異形」が鎮座していたからだ。
バービー。その名を聞いた時、私はてっきり愛らしい幼児の姿をした人形を想像していた。しかし、目の前に立つそれは、高さ十一インチほどの、完璧なプロポーションを持つ「大人の女」だった。
白と黒の縞模様の水着を身に纏い、ポニーテールに結い上げられた髪は艶やかな光沢を放っている。何より衝撃的だったのは、その顔立ちだ。これまでの人形のような、空虚で無垢な赤ん坊の眼差しではない。重いアイラインを引いた瞳は横に流れ、自信に満ちた、どこか挑戦的な表情を浮かべている。真っ赤に塗られた唇。細く長い四肢。そして、これまでの玩具界でタブー視されてきた、はっきりとした胸の膨らみ。
「信じられるか、アーサー。これは子供の遊び相手じゃない、情婦のミニチュアだ」
隣で同じように足を止めていたシカゴの老舗店のバイヤーが、苦々しく吐き捨てた。周囲の男たちの反応も似たようなものだ。彼らは冷笑を浮かべ、このあまりにも性的で、あまりにも「生々しい」人形が、母親たちの反感を買うだろうと確信に満ちた声で囁き合っている。清潔な寝室に置かれるべきは、おむつを替える練習をするための赤ん坊地みた人形でなければならない。それがこれまでの黄金律だった。
しかし、私はその冷笑の合間に、マテル社のルース・ハンドラー夫人の毅然とした姿を見た。彼女は男たちの疑念を跳ね返すような鋭い眼差しで、そのプラスチックの乙女を見つめていた。彼女が語ろうとしているのは、育児の模倣ではない。女の子たちがいつか手にするであろう「自由」と「洗練」の物語なのだ。
私は手を伸ばし、一体のバービーを手に取ってみた。指先に触れる冷たいビニールの感触。だが、その冷たさとは裏腹に、私の脳裏には不思議な光景が浮かんでいた。この人形を手にした少女たちが、おままごとのキッチンを飛び出し、オフィスを歩き、オープンカーを操り、自分の人生を自らの手で選ぶ姿だ。それは、この煙たい会場にいる旧態依然とした男たちには決して理解できない、新しい時代の胎動だった。
価格は三ドル。決して安くはないが、法外でもない。この小さなプラスチックの体には、未来の女性たちが抱くであろう渇望が凝縮されている。服を着せ替え、役を与え、自分自身の投影として世界へ送り出す。これはもはや玩具ではなく、一つの文化の始まりなのではないか。
会場を出ると、霧は晴れ、摩天楼の窓が午後の光を反射して輝いていた。私のカバンの中には、契約書の束と共に、あの縞模様の水着を着た人形の残像が深く刻まれている。帰りのタクシーの中で、私は手帳にこう記した。「本日、ニューヨークにて、未来の予兆を目撃せり」と。
数年後、あの冷笑を浮かべていた男たちは、自分たちの店に殺到する少女たちの行列を見て、自らの無知を悟ることになるだろう。プラスチックの聖母は、今日、静かにこの街で産声を上げたのだ。その声はまだ小さく、排気ガスの音にかき消されそうではあるが、間違いなく世界を塗り替える響きを秘めていた。
参考にした出来事:1959年3月9日、アメリカ・ニューヨークで開催された国際玩具フェアにおいて、マテル社が「バービー人形」を初めて公開。共同創業者の一人であるルース・ハンドラーによって開発されたこの人形は、従来の幼児型人形とは一線を画す「大人の女性」の姿をしており、当初は保守的なバイヤーたちから懐疑的な目で見られたが、発売後に爆発的なヒットを記録。子供たちの遊びとジェンダー観に革命をもたらした。