【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
今朝はいつもと同じ、煤けたロンドンの空の下、いつものキングスランド・ロードを足早に歩いた。薄曇りの空は、時折小雨を降らせるには十分な湿度を街にもたらしていたが、幸い、本降りになる気配はない。パブ「ザ・アンカー」の前を通り過ぎる頃には、もう午前八時を回っていて、店からは昨夜の喧騒が染みついたような、埃っぽいビールの匂いが薄く漂っていた。
職場である会計事務所に着くと、朝食の紅茶を片手に同僚たちが何やら騒がしく話している。「見たか、あれを?」「機械が金を出してくれるなんて、冗談だろう?」彼らの話の中心は、どうやらバークレイズ銀行のハーフウェイ・ツリー支店に昨日設置されたという、新しい「機械」のことらしい。噂は数日前から耳にしていたが、まさかあれほど人々の好奇心を掻き立てるとは思わなかった。聞けば、夜中でも金を引き出せるというのだ。馬鹿げた話だ。銀行が開いている時間で十分ではないか。私はそう思ったが、内心では少しばかりの興味が湧いていたのも事実だった。
一日中、頭の片隅にはその「機械」のことが引っかかっていた。請求書の山と数字の羅列に目を凝らしながらも、ふと顔を上げれば、窓の外を忙しなく行き交う人々の群れの中に、未来の影を探しているような気分になった。午後六時に事務所を出ると、ネオンが灯り始めた街は、昼間の喧騒とはまた違う活気を帯びていた。私は足をハーフウェイ・ツリーの方へ向けていた。
バークレイズ銀行の前には、既にかなりの人だかりができていた。普段は厳めしいばかりの石造りの建物の一角に、それは設置されていた。ずんぐりとした灰色の金属の箱。街灯の光を鈍く反射し、まるでSF映画に出てくるような、どこか異質な存在感を放っている。人々は訝しげな顔でそれを覗き込んだり、指をさして小声で話し合ったりしている。まるで動物園の珍しい動物を見ているようだ。
私は人混みをかき分け、最前列まで進んだ。傍らに立つ銀行員らしき男が、しきりに説明を繰り返している。「お客様、こちらはディ・ラ・ルー社製。事前に銀行で発行された特別な小切手をお使いいただくのです。」
見ると、その箱の前面には、幾つかのボタンと、小切手を差し込む細い隙間、そして紙幣が出てくるらしい開口部がある。実際に試している男がいた。彼は銀行員から受け取ったらしい、妙に厚手の紙切れを、指示された通りに機械の奥へと押し込んだ。
ゴトッ、という鈍い音がした。そして、モーターが唸るような、少しばかり頼りない機械音が続く。周囲の好奇の視線が、その男の手元に集中する。数秒の沈黙の後、ガチャン、と小気味よい金属音と共に、下部の開口部から何枚かの紙幣が滑り出てきたではないか。五ポンド札だ。男は驚いたようにそれを受け取り、顔を上げて周囲を見渡した。彼の表情には、困惑と、そして隠しきれない歓喜が混じっていた。
私も息を呑んだ。本当に金が出てきた。銀行の窓口で、顔を突き合わせて書類にサインし、待つこと数分。それが当たり前だった。ところが、この箱は、夜の帳が下りたロンドンの街角で、あっさりと金を吐き出したのだ。まるで魔法だ。いや、これは魔法ではない。紛れもない現実だ。
「これなら、週末の急な出費にも困らない。給料日まであと二日、なんて時に、こんな機械があればどれほど助かるか。」
私の隣にいた老人が、震える声で呟いた。彼の言葉は、私の心を鷲掴みにした。まさにその通りだ。私は何度、給料日前の木曜の夜に、急な出費で頭を抱えたことか。友人と一杯やりたいのに、財布の中は空っぽ。銀行はもう閉まっている。そんな経験が何度あったか。
この機械は、銀行の営業時間という、私たちを縛っていた目に見えない鎖を、静かに、しかし確実に打ち破ろうとしている。もちろん、不安がないわけではない。こんな無機質な機械が、本当に私たちのお金を安全に管理できるのだろうか?誤作動はないのか?盗難の心配は?しかし、それらの懸念を上回る便利さが、そこには確かに存在した。
私はその夜、初めて見るその「現金自動預け払い機」から目を離すことができなかった。それはただの金属の箱ではなかった。それは、私たちの日々の生活を、そしておそらくは社会のあり方までもを変えるかもしれない、未来の扉だった。今日のロンドンの街角で、私は一つの新しい時代の幕開けを目撃したのだ。私の手帳に、その日を記す。
—
参考にした出来事:
1967年6月27日、ロンドンに世界初の「現金自動預け払い機(ATM)」が設置される。英国バークレイズ銀行のハーフウェイ・ツリー支店に登場したもので、ジョン・シェパード=バロンが考案し、デ・ラ・ルー社が製造した。当時はまだデビットカードのようなものは存在せず、放射性炭素14でマークされた特殊な紙の小切手(券)を機械に挿入し、暗証番号を入力することで現金を引き出す仕組みだった。これにより、銀行の営業時間外でも現金を引き出すことが可能となり、金融サービスに革命をもたらす最初のステップとなった。