【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
午前三時、まだ夜の帳が降りたままのレス・バラ・クの海岸に、冷ややかな海風が吹き付けている。私の手元を照らすランプの灯は、風に煽られて心許なく揺れ、作業小屋の壁に歪んだ影を投げかけていた。空気は湿り気を帯び、潮の香りに混じって、揮発したガソリンと焼けたキャスターオイルの鼻を突く匂いが漂っている。
ルイは先ほどから、松葉杖を傍らに置いて、自分の愛機「ブレリオ十一号」の傍らに佇んでいる。数日前の事故で負った足の火傷は、包帯の下でまだ赤く爛れているはずだ。歩くことさえままならぬ男が、これから荒れ狂う海を越え、未踏の空路に挑もうとしている。その狂気とも取れる静かな決意に、私は言葉を失うしかなかった。
「風はどうだ?」
彼が短く尋ねる。私は空を見上げた。暗雲の切れ間から、時折星が覗いている。数日前、宿敵ユベール・ラザムが海へと墜落したあの日よりも、海面は穏やかに見えた。だが、ドーバー海峡の空は気まぐれだ。一度飛び立てば、彼を救える者は誰もいない。二十五馬力のアンザニ・エンジン。たったそれだけの心臓で、重力という鎖を断ち切り、ドーバーの白い崖を目指さなければならないのだ。
午前四時四十一分。東の地平が、毒々しいほどに鮮やかな薄紫色に染まり始めた。太陽が顔を出す直前の、束の間の静寂。ルイは松葉杖を投げ出し、仲間に支えられながら狭い操縦席へと乗り込んだ。彼の顔は青白く、しかし眼光だけは異常なまでの鋭さを放っている。
プロペラが回った。爆音とともに、砂浜の草が激しくなぎ倒される。排気ガスが朝露に濡れた地面を叩き、白い煙を吐き出す。機体は震え、まるで生き物のように跳ね上がろうともがいていた。私は主翼の端を掴み、機体を支える。キャンバス地の翼越しに、エンジンの凄まじい鼓動が掌に伝わってきた。それは単なる機械の振動ではない。一人の人間の執念が、木材と布の塊に命を吹き込んでいるかのような、熱を帯びた拍動だった。
「放せ!」
彼の叫びとともに、機体は走り出した。ガタガタと地面を叩く音が、次第に軽やかな音へと変わる。そして、奇跡が起きた。重い体を引きずるようにして、ブレリオ十一号が重力から解放されたのだ。海面へと滑り出すように高度を上げていくその姿は、あまりにも脆く、そしてあまりにも美しかった。
私は波打ち際に立ち尽くし、次第に小さくなっていくその影を追い続けた。海の上は深い霧に包まれている。ルイの姿は、すぐに灰色の帳の中へと消えていった。残されたのは、遠ざかっていくエンジンの微かな唸りと、寄せては返す波の音だけだ。
それからの二十分間、あるいは三十分間だったろうか。時間は粘り気のある沈黙となって私を取り囲んだ。無線などという便利なものはない。彼が生きているのか、それともラザムと同じように冷たい海に沈んだのか、知る術はない。私は何度も時計を確認し、ドーバーの方向を凝視した。水平線の向こう側には何があるのか。文明の果てか、それとも新たな時代の夜明けか。
やがて、一艘のボートがフランス側へ向けて狂ったように信号を送ってきた。ドーバーからの連絡だ。
「成功した。ブレリオ、ノースフォール・メドウに着陸!」
その瞬間、浜辺にいた数少ない目撃者たちから、地鳴りのような歓声が上がった。だが私は、歓声を上げるよりも先に、崩れ落ちるように砂浜に座り込んでしまった。
ルイ・ブレリオは、わずか三十七分間の飛行で、数千年の間、人類を隔ててきた海峡を無効化したのだ。木と布とガソリンの匂い。あの不完全な機械が、巨大な大英帝国の防壁を飛び越えた。これは単なる飛行の記録ではない。地図が書き換わり、世界の距離が決定的に変容した瞬間なのだ。
いま、フランスの海岸に昇った太陽は、対岸の白い崖をも等しく照らしているだろう。私の耳の奥には、まだあのアンザニ・エンジンの、乾いた、それでいて誇らしげな爆音が鳴り響いている。今日という日は、人類が大地という揺り籠から永遠に去りゆくための、最初の一歩として記憶されるに違いない。
参考にした出来事:1909年7月25日、ルイ・ブレリオによる航空機史上初の英仏海峡横断飛行。フランスのカレー付近からイギリスのドーバーまで、自作の「ブレリオ XI」で飛行し、約37分で完遂した。この成功により、航空機の実用性が世界的に認められる大きな契機となった。