【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
早朝のロストック・マリーンエーヘ飛行場は、乳白色の深い霧に包まれていた。バルト海から流れ込む湿った空気が、格納庫のトタン屋根を濡らし、絶え間なく滴を落としている。私は、冷え切った指先をウールのコートのポケットに深くねじ込み、目の前に鎮座する異形の機体、ハインケルHe178を見つめていた。その姿は、これまでの航空機の概念を根底から覆すほどに滑らかで、そして不気味なほど静止していた。鼻先にあるはずのプロペラがない。その欠落こそが、我々が数年にわたり心血を注いできた「秘密」の正体であった。
ハンス・フォン・オハイン博士は、徹夜明けの充血した目をこすりながら、エンジンの最終チェックに余念がない。彼の生み出したハインケル・シュトラール噴流推進機「HeS3」は、ガソリンではなく灯油を燃やして推力を得る。従来のレシプロエンジンが奏でる重厚な爆音とは無縁の、未知の咆哮を秘めた心臓部だ。私は彼の傍らで、燃料系統の計器を注視していた。灯油独特の、鼻を突くような鋭い臭気が周囲に立ち込め、期待と不安が入り混じった吐き気が胃の腑を揺さぶる。
パイロットのエーリッヒ・ヴァルジッツが機体へと歩み寄る。彼は我々技術者に向けて、短く、だが力強い会釈を投げかけた。死を覚悟した男の顔ではない。彼はこれから、人類がこれまで一度も経験したことのない物理法則の領域に足を踏み入れようとしているのだ。彼が狭い操縦席に身を沈め、天蓋が閉じられると、格納庫の静寂はにわかに緊張の極致に達した。
エンジンの始動作業が始まる。始動用モーターが甲高い音を立てて回転を上げ、燃焼室に火が入った。その瞬間、マリーンエーヘの空気に異変が起きた。これまでの航空機が発していた「ドッドッドッ」という断続的な爆発音ではない。それは、巨大な獣が喉の奥で鳴らすような、あるいは猛烈な嵐が狭い通路を吹き抜けるような、耳を劈く「キーン」という高周波の絶叫であった。
機体後部の噴流ノズルから、陽炎のような熱波が激しく揺らめき、湿った地面の土を一気に焼き払う。ヴァルジッツがブレーキを解放すると、He178はまるで目に見えない巨人に背中を押されたかのように、滑走路を滑り出した。プロペラが空気を掻く振動がない。ただ、凄まじい熱と音の塊が、矢のように前進していく。
霧を切り裂き、機体は速度を上げていく。滑走路の端が迫る。離陸できるのか。揚力は足りているのか。我々は息を止めて見守った。次の瞬間、銀色の小さな翼がふわりと大地を離れた。プロペラという「杖」を捨てた鳥が、自らの内なる炎だけで空へと舞い上がったのだ。
その光景は、あまりにも非現実的であった。プロペラが回転する影も見えず、ただ流線型の金属体が、暴力的なまでの速度で上昇していく。ハインケル博士は私の隣で、拳を硬く握りしめ、言葉もなくその軌跡を追っていた。彼の野心と、オハイン博士の天才が、今、物理的な現実となって重力を克服したのだ。
上空を旋回する機体の音は、地上にいる我々には、天から降り注ぐ新しい時代の産声のように聞こえた。それはあまりにも鋭く、あまりにも純粋な音だった。わずか六分間の飛行。しかし、その六分間は、モンゴルフィエ兄弟の気球やライト兄弟の初飛行に匹敵する、あるいはそれを凌駕する、文明の転換点であった。
ヴァルジッツは完璧な旋回を描き、滑走路へと戻ってきた。着陸の際、エンジンの回転を下げた時の音の変化は、まるで巨大な器官が呼吸を整えるかのようだった。機体が完全に停止し、エンジンが沈黙した後の静寂は、以前の静寂とは全く質の異なるものだった。世界は、もう二度と元には戻らない。我々は、音の壁さえも突き抜ける未来の扉を、この手で開いてしまったのだ。
だが、この歓喜の影で、私は拭いきれない不安も感じていた。東の空には、ポーランド国境へと向かう軍隊の軍靴の音が不気味に響いている。この「プロペラなき翼」がもたらす速度は、人類をどこへ運んでいくのか。それは平和な旅路か、それとも未曾有の破壊への近道か。ハインケル博士がヴァルジッツと抱き合い、シャンパングラスを掲げる傍らで、私はただ、熱を帯びたままの噴流ノズルを見つめていた。1939年8月27日。この日、空の歴史は塗り替えられた。しかし、その新しい頁が何色に染まっていくのかを、まだ誰も知る由はなかった。
参考にした出来事
1939年8月27日、ドイツのハインケル社が開発した世界初のジェット推進航空機「ハインケル He178」が初飛行に成功しました。ハンス・フォン・オハインが開発した遠心式ターボジェットエンジン「HeS 3」を搭載し、エーリッヒ・ヴァルジッツの操縦により、プロペラを持たない航空機としての歴史的な第一歩を刻みました。この成功は航空史上最大の革命の一つとされていますが、第二次世界大戦勃発の直前であったため、当時のドイツ軍上層部からは十分な関心を得られなかったと言われています。