【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
午前三時、パサデナの空気はひどく冷えていた。ジェット推進研究所、通称JPLの入り口へと向かう私の足取りは、期待というよりは、巨大な重圧に押し潰されそうな感覚に近い。今日、我々が数年の歳月と数兆円の予算、そして無数の知性を注ぎ込んだ「キュリオシティ」が、火星の赤い大地に触れる。あるいは、ただの鉄の屑と化す。そのどちらかだ。
管制室、通称ブルー・ルームに入ると、そこには既に独特の匂いが充満していた。熱を帯びたサーバーの排気、使い捨ての紙コップに残る冷めたコーヒー、そして何十人もの人間が発する濃密な緊張の汗の匂い。誰もが不自然なほど静かだった。恒例の「幸運のピーナッツ」の缶が回される。指先で掴んだナッツの塩気が、乾ききった喉にひりつく。科学を信奉する我々が、最終的にこのような迷信に縋るしかないという事実は、このミッションがいかに人間の制御を超えた領域にあるかを物語っていた。
火星と地球の距離は、今この瞬間も約二億五千万キロメートル。光の速さで情報を送っても、火星から届くまでには十四分近くかかる。つまり、我々が着陸開始の信号を確認したときには、火星での出来事は既に終わっているのだ。成功か、失敗か。キュリオシティが既に無事着陸して沈黙を守っているのか、それとも大気に焼かれ、クレーターに衝突して砕け散っているのか。我々は、既に確定してしまった「過去」を、神の裁定を待つ罪人のような心地で待つしかなかった。
「大気圏突入を確認」
管制官の声が響く。ここから、悪夢のような「恐怖の七分間」が始まる。
大気圏への突入速度は時速約二万一千キロ。キュリオシティを包むカプセルの表面温度は、セ氏二千度を超える。モニターに映し出されるシミュレーション画像の中で、白熱する火の玉が火星の薄い大気を切り裂いていく。パラシュートの展開、ヒートシールドの分離。一つ一つの工程が正常に完了したというテレメトリが届くたび、室内に短い拍手が沸き起こる。だが、誰もが知っていた。本当の試練はこれからだ。
今回の着陸は、過去のどのミッションよりも狂気に満ちていた。重すぎる機体を安全に降ろすため、我々は「スカイクレーン」という前代未聞の手法を選んだ。逆噴射する下降機からワイヤーで探査車を吊り下げ、そっと地面に置く。SF小説の挿絵でも、これほど突飛な発想は描かれないだろう。
「パラシュート分離。動力降下開始」
私の視界が少しずつ歪む。心臓の鼓動が耳の奥で、管制室の電子音をかき消すほど大きく脈打っていた。隣に座るベテランのエンジニアが、祈るように組んだ手を白くなるまで握りしめているのが見えた。
「スカイクレーン展開」
誰もが息を止めた。室内から一切の物音が消え、ただテレメトリを読み上げる冷淡な機械の声だけが、宇宙の深淵からの言葉を伝えていた。
その瞬間、一筋のデータが画面を走った。
「タッチダウン・コンファームド(着陸確認)。我々は火星に降り立った」
その一言が、管制室の空気を爆発させた。
叫び、抱き合い、飛び上がる人々。椅子の倒れる音、むせび泣く声。私もまた、自分が何に対して叫んでいるのかも分からぬまま、隣のエンジニアの肩を掴んで激しく揺さぶっていた。
モニターに、キュリオシティの目、避障カメラが捉えた最初の画像が映し出される。それはひどく低解像度の、砂塵が舞う白黒の画像だった。しかし、そこに映っているのは間違いなく、火星の硬い大地と、その上に落ちる探査車の影だった。
一億年前からそこにあったであろう石ころ。赤く、乾いた、冷酷なまでの静寂に包まれた世界。そこに今、地球という青い点から送り込まれた一トンの機械が、誇らしげに車輪を据えている。
私は眼鏡を外し、目頭を押さえた。窓の外を見れば、カリフォルニアの空はいつもと変わらず白み始めていた。だが、私にとって、そして人類にとって、今日という日は昨日までとは決定的に違う意味を持つようになった。
我々は今、あの大地に立っているのだ。キュリオシティという鋼の身体を借りて。
遠い宇宙の彼方、ゲール・クレーターに降り積もる赤い砂が、静かにその車輪に触れる様子を想像した。これから始まる数年の孤独な旅路に思いを馳せると、言いようのない孤独感と、それを上回るほどの高揚感が胸を締め付けた。
コーヒーはもう冷めきっていたが、その味は、これまで飲んだどんな飲み物よりも深く、命の昂ぶりを感じさせるものだった。
参考にした出来事:2012年8月6日、NASAの火星探査車「キュリオシティ」が火星のゲール・クレーターに着陸。マーズ・サイエンス・レボラトリー(MSL)ミッションの一環であり、「スカイクレーン」という革新的な着陸技術が初めて実戦投入され、成功を収めた。