【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
ニュージャージー州フォートリーの、深夜の静寂に包まれたスタジオ。エアコンの低く唸るような駆動音だけが、耳の奥にこびりついている。私の目の前には、何十台ものブラウン管モニターが冷たい光を放ち、壁一面に並んでいた。空調は効いているはずなのに、機材が発する熱気と、立ち込める安っぽいコーヒーと吸い殻の匂いのせいで、喉の奥がじりじりと焼けるように熱い。
午前零時一分前。コントロール・ルームの緊張感は、破裂寸前の風船のようだった。コンソールを操るエンジニアたちの指先は、微かに震えている。誰もが、これから自分たちが何を引き起こそうとしているのか、確信を持てずにいた。音楽を二十四時間流し続けるテレビ局。ラジオに取って代わろうとする無謀な試み。業界の重鎮たちは、そんなものは一週間も持たずに資金を食い潰して消えるだろうと、冷笑を浮かべていた。
「十秒前」
ディレクターの声が、通信機を通じて鼓膜に響いた。私は卓に置かれたモニターを凝視した。映し出されているのは、まだ調整用のカラーバーだ。だが、その向こう側には、全米の限られた家庭へと繋がる同軸ケーブルが、まるで神経系のように張り巡らされている。
「五、四、三、二、一……行け!」
ジョン・ラックの声が、スピーカーから弾け出した。「レディース・アンド・ジェントルメン、ロックンロール」。その宣言と同時に、モニターの映像が切り替わった。
画面に現れたのは、かつて人類が月に降り立った時の、あの象徴的な記録映像だった。しかし、それは私たちが知っている歴史の断片ではなかった。粗い粒子のモノクロ映像の上に、サイケデリックな色彩で塗りつぶされた「M」の文字が、暴力的なまでの鮮やかさで重なる。月面に突き立てられたのは星条旗ではなく、絶えず色と模様を変え続ける、名もなき旗だった。
重低音が腹に響く。最初のミュージック・ビデオが始まった。バグルスの『ラジオ・スターの悲劇』だ。
シンセサイザーの乾いた旋律が、狭いコントロール・ルームに満ちていく。ブラウン管の中で、大きな眼鏡をかけたトレヴァー・ホーンが、皮肉めいた笑みを浮かべて歌っている。映像は切り刻まれ、加工され、現実と虚構の境界を曖昧にしていく。それは、これまでのテレビが守り続けてきた「秩序」や「正しさ」に対する、宣戦布告のように見えた。
私はコンソールに手を置き、流れる電流の微かな振動を感じていた。今、この瞬間に、音楽は「聴くもの」から「見るもの」へと変貌を遂げたのだ。ラジオのスピーカーから流れる旋律に想像を膨らませていた時代は、この電子の奔流によって押し流されようとしている。
画面の中では、ラジオが爆発し、古い時代の象徴が瓦礫へと変わっていく。皮肉なものだ。この曲を選んだ連中のセンスには脱帽する。自分たちが何を葬り去ろうとしているのか、彼らは痛いほど自覚しているのだ。
ふと隣を見ると、ベテランの技術者が呆然とした顔でモニターを見つめていた。彼の世代が作り上げてきた、重厚で、整然とした放送倫理という名の城壁に、得体の知れない若者たちがカラースプレーで落書きを始めたようなものだ。彼の戸惑いは、そのまま新しい時代の幕開けを意味していた。
一曲目が終わり、次のビデオが始まる。パット・ベネターが画面の中で叫んでいる。映像の解像度は決して高くはない。時折ノイズが走り、色滲みが起きる。だが、その不完全さこそが、深夜のベッドルームでテレビを見つめている若者たちの飢えを満たすのだ。
私はタバコを一本取り出し、火をつけた。禁煙のルールなど、今のこの狂乱の中では何の意味も持たない。窓の外を見れば、ニュージャージーの夜闇の向こうに、マンハッタンの摩天楼がぼんやりと光っている。あの中にある数え切れないほどのテレビ受像機が、今この瞬間、我々が送り出した電子の粒子を受け取り、極彩色の光を放ち始めているのだ。
これは単なる放送開始ではない。文化の突然変異だ。これからの世界では、スターは歌声だけでなく、その身のこなし、視線の鋭さ、そしてまとう服の色彩によって定義されることになるだろう。イメージが実体を追い越し、虚像が真実よりも雄弁に語りかける時代の到来だ。
午前一時。私のシフトはまだ続く。モニターの中では、狂ったような色彩の渦が、休むことなく回転し続けている。私は熱くなったコーヒーを飲み干し、再びコンソールに向き直った。電子の荒野に立てられたあの旗は、もう二度と引き抜かれることはないだろう。たとえそれが、かつて私たちが愛した何かを、永遠に葬り去ることになったとしても。
参考にした出来事
1981年8月1日、アメリカ合衆国で音楽専門チャンネル「MTV(ミュージック・テレビジョン)」が放送を開始した。ワーナー・アメックス・サテライト・エンターテインメントによって設立され、ニュージャージー州のスタジオから全米に向けて送出された。放送の冒頭では、アポロ11号の月面着陸映像を加工したアイキャッチと共にジョン・ラックによる「Ladies and gentlemen, rock and roll」という宣言がなされ、最初に放送されたミュージック・ビデオはバグルスの『Video Killed the Radio Star(ラジオ・スターの悲劇)』であった。この放送開始は、音楽業界およびポピュラー文化における視覚情報の重要性を決定づける歴史的転換点となった。