概要
メゾンマルジェラとメゾンマルゲラ、どっちが正しいカタカナ表記か
その部屋は、床も壁も天井も、そして中央に立つ受付係の白衣に至るまで、徹底して白かった。ペンキの白ではない。晒された木綿のような、乾いた白だ。
男は緊張して受付の前に立った。ここが人生の分岐点であることを知っていたからだ。左右に続く二つの道。片方は、煤煙と油に塗れた重工業地帯へ続く労働の道。もう片方は、洗練と美意識が支配する特権的な屋敷へ続く道だ。
「行き先を申告してください」
受付係は事務的に言った。男は頭上の看板を見上げる。そこには『Maison Marg…a』と書かれていた。肝心な部分が白い塗料で塗り潰され、判読できない。
男は記憶を必死に手繰り寄せた。確か、綴りはほぼ同じだったはずだ。だが、読み方が違う。一方は濁った破裂音を含む「マルゲラ」。それはイタリアの工業港湾地区の地名だ。鉄と化学薬品の臭いがする場所。 もう一方は、摩擦音を含む「マルジェラ」。それは伝説的なデザイナーが創設した、既成概念を破壊するファッションの「メゾン(家)」だ。
選ぶべきは明白だった。誰が好き好んで油まみれの港湾地区に行くだろうか。男は深呼吸をし、唇を突き出して、できるだけ上品に、柔らかく発音した。
「メゾン・マルジェラ」
受付係の手が止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、男の顔をじっと見たあと、穏やかな笑みを浮かべた。
「おめでとうございます。貴方は正しく『概念』を選ばれました」
右側の白い扉が開いた。男は安堵の息を漏らし、光あふれるその先へと足を踏み入れた。
扉が閉まると、そこには数人の「職人」たちが待っていた。彼らもまた白衣を着ており、手にはハサミや針を持っていた。男は期待に胸を膨らませた。ここで美しい服を与えられ、優雅な生活が始まるのだ。
「では、解体(デコンストラクション)を始めます」
職人の一人が言った。 男が意味を問う間もなく、彼は台の上に押し付けられた。
「暴れないでください。我々のメゾンにおいて、個人の『エゴ』は不要な装飾です。名前も、顔も、過去も、一度すべて解体し、再構築する。あるいは、余白として塗りつぶす。それがここの流儀(モード)ですから」
男は叫ぼうとしたが、白い布が顔に被せられた。視界が白一色に染まる中、壁の向こう側から、野太い汽笛の音が聞こえてきた。
それは「マルゲラ」へと続く左の道からだった。そこでは、顔に煤をつけた労働者たちが、仕事終わりのビールを片手に、大声で笑い合い、それぞれの「名前」を呼び合っていた。彼らは油にまみれながらも、確かに個としての輪郭を保ち、生きていた。
男の意識が薄れる直前、職人が耳元で囁いた。
「美しい『素材』になれそうです」