【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
一九一〇年一月十二日。ニューヨークの冬は、肺の奥まで凍てつかせるような乾いた冷気に支配されている。指先の感覚はとうに失われ、真鍮の端子に触れるたび、刺すような痛みが走る。しかし、私の心臓はかつてないほどの熱を帯びて拍動していた。今日、私たちは神の領域に手を触れようとしている。あるいは、この広大な虚空に、初めて人間の魂を吹き込もうとしているのだ。
メトロポリタン歌劇場の屋根裏は、埃っぽく、蜘蛛の巣が張ったままの、およそ芸術とは無縁の場所だ。だが、ここにはド・フォレスト博士が心血を注いだ「オーディオン」――あの奇妙な形をした三極真空管が、鈍い光を放って鎮座している。博士は、まるで壊れやすい赤子を扱うかのような手つきで、複雑に絡み合った銅線の森をかき分け、最後の調整を行っていた。彼の眼光は鋭く、同時に獲物を追う猟師のような狂気を孕んでいる。
「聞こえるか」と博士が短く問うた。
私は重い受話器を耳に押し当てた。聞こえるのは、荒れ狂う大西洋の波濤のような、絶え間ない静電気の雑音だけだ。チチッ、という火花が飛ぶような音が混じり、耳の奥を不快に刺激する。これまで世界中の無線通信士たちが聞いてきたのは、この無機質な符号の断片に過ぎなかった。短点と長点、ただそれだけの、感情を持たない信号の応酬だ。
だが、今夜は違う。
舞台の下では、偉大なるエンリコ・カルーソーが、その黄金の喉を震わせようとしている。演目は『カヴァレリア・ルスティカーナ』と『パリアッチ』。富裕層が毛皮を纏い、ベルベットの椅子に身を沈めて享受するあの至高の芸術を、我々はこの不可視のエーテルに乗せ、ニューヨーク中の、いや、理論上はどこまでも広がる空間へと解き放つのだ。
午後八時。その瞬間は唐突に訪れた。
耳を劈く雑音の向こう側から、薄い霧を突き抜ける光のように、ひとつの震えが届いた。それは符号ではない。断続的なクリック音でもない。それは、紛れもない人間の吐息、旋律、そして情熱の響きだった。
「……おお……」
私は思わず声を漏らした。受話器から漏れ聞こえてくるのは、カルーソーの朗々たる歌声だった。音質は決して芳しいとは言えない。まるで猛吹雪の向こう側で誰かが叫んでいるかのように、激しい空電が歌声を遮り、歪ませる。しかし、その歪みのなかに、一人の人間の命が、震える振動体となって確実に存在していた。メトロポリタン歌劇場の分厚い石壁を抜け、ニューヨークの冷たい夜空を駆け抜け、この小さな機械のなかで、歌声が蘇っているのだ。
博士が満足げに、そしてどこか祈るような面持ちで、装置のダイヤルを微調整する。彼の発明した真空管が、微弱な電気信号を増幅し、見えない波を音へと変換している。これは奇跡だ。かつて、音楽を聴くためにはその場に居合わせるしかなかった。あるいは、蓄音機の蝋管に刻まれた過去の亡霊を呼び出すしかなかった。しかし今、この瞬間、私たちは「現在」を遠く離れた場所へと、時間も距離も超越して運んでいる。
屋根裏の小さな窓から外を眺める。街の至る所に、この放送を待ち構えている物好きたちがいるはずだ。ホテルに設置された受信機、あるいは客船の無線室。そこでは、訓練を受けた通信士たちが、耳慣れたモールス符号ではなく、突然流れ込んできたオペラの歌声に驚愕し、十字を切っているのではないだろうか。
カルーソーの声は、天に昇るような高音を響かせ、そして静かに消えていった。静寂が戻る。いや、再びあの波濤のような雑音の海が、世界を覆い尽くした。だが、私の耳にはまだ、あの黄金の残響がこびりついている。
博士は大きく息を吐き、スイッチを切った。真空管の熱がゆっくりと冷めていく。私たちは言葉を交わさなかった。ただ、歴史の転換点に立ち会った者特有の、重苦しいほどの静寂を共有していた。
これからは、世界が狭くなるだろう。声が、思想が、そして歌が、翼を持たずとも海を渡り、壁を越える時代が来る。誰の耳にも届かなかった叫びが、何千マイルも先で誰かの心を揺さぶる日が来るのだ。
日記を閉じる今も、私の手はまだ震えている。ニューヨークの寒空の下、目には見えないが、確かな「声」が今もこの空間を漂っているような気がしてならない。一九一〇年一月十二日。この日、人類は沈黙を克服したのだ。
参考にした出来事
1910年1月12日、リー・ド・フォレストによる世界初の公開ラジオ放送。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場において、テノール歌手エンリコ・カルーソーの出演するオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』および『パリアッチ』の歌声を、三極真空管(オーディオン)を用いた送信機で放送した。これは、特定の相手への通信ではなく、不特定多数に向けた「放送」の先駆けとなった歴史的実験である。