【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
ワシントンD.C.の冬の朝は、まるで瓶の中に閉じ込められた冷たい霧のように重く、湿っている。ポトマック川から吹き上げる風が、コートの襟元を執拗に抉り、私の肺の奥まで凍てつかせようとする。私は馬車の座席で、膝の上に置いた革の鞄を強く抱きしめていた。その中には、歴史の重みなど微塵も感じさせない、わずか数枚の図面と書類が収められている。しかし、そこに記された「改良された電信装置」という控えめな題名の下には、人類の歴史を根底から覆す可能性が眠っていることを、私は知っていた。
グラハム・ベル氏の顧問弁護士であるアンソニー・ポロック氏の事務所を出たのは、まだ街のガス灯がぼんやりと朝の闇を照らしている頃だった。事務所の中は、数日間続いた徹夜作業の余韻で、強い珈琲の香りと煤けたランプの匂いが充満していた。ベル氏本人はボストンに残り、実験に没頭している。彼の代わりにこの重要な使命を託された私は、特許局へと急ぐ。
特許局の巨大な石造りの建物は、まだ眠りから覚めきらぬ街の中で、冷厳な沈黙を保っていた。馬車を降り、泥濘んだ雪の上を足早に進む。私の吐く息は白く、心臓の鼓動は自分でも驚くほど速い。大理石の床に響く自分の靴音がいやに大きく聞こえ、まるで神聖な寺院を冒涜しているような錯覚に陥る。
午前九時。特許局の窓口が開くと同時に、私はポロック氏の名代として、一通の出願書類を提出した。事務官は退屈そうに眼鏡をずらし、機械的な手つきで書類を確認する。彼の手元にあるスタンプが、ガチャンという無機質な音を立てて書類に落ちた。1876年2月14日。この瞬間、アレクサンダー・グラハム・ベルの特許出願は正式に受理された。
窓口を離れ、回廊を歩きながら、私は鞄の中に残った控えの書類をそっと指先でなぞった。ベル氏が追い求めているのは、単なる信号の送信ではない。それは、人間の「声」そのものを、電線の震えに変えて遠くへ運ぶという、かつては魔術とさえ呼ばれた行為だ。
ボストンでの実験の様子を、ベル氏は以前私に語ってくれたことがあった。硫酸を入れたカップと、薄い膜。音の振動が電流の強弱を変え、それが再び音に戻る。彼はそれを「波状電流」と呼んでいた。もしこれが成功すれば、何マイルも離れた場所にいる恋人の囁きが、あるいは遠く離れた戦地の兵士の叫びが、まるで隣にいるかのように耳に届くことになる。沈黙を守り続けてきたこの広大な大陸から、距離という概念が消え去るのだ。
昼過ぎ、事務所に戻ると、奇妙な噂を耳にした。私が書類を提出してからわずか二時間後、イライシャ・グレイという別の発明家が、酷似した技術についての「特許予備出願」を同じ窓口に提出したというのだ。背筋に冷たいものが走った。もし私が、今朝のあの冷たい珈琲をもう一杯飲んでいたら。もし、馬車の御者が道を一本間違えていたら。この歴史の歯車は、全く別の方向へと回転を始めていたに違いない。
夕刻、私はワシントンの街を一望できる丘に立っていた。街には家々の煙突から立ち上る煙が漂い、至る所に張り巡らされた電信線が、薄暮の空を切り刻んでいる。これまでは、トントンという単調な打鍵音しか運べなかったあの黒い線が、やがて万人の言葉で満たされる日が来るのだろうか。
耳を澄ませてみる。聞こえるのは、冷たい風の音と、遠くで響く馬車の轍の音だけだ。しかし、私の脳裏には、数え切れないほどの声が混じり合い、響き渡る未来の喧騒がはっきりと聞こえていた。それは、人類が神から与えられた沈黙という安らぎを永遠に失う代償として手に入れる、新しい時代の福音なのかもしれない。
ベル氏は今頃、ボストンの実験室で、やはり電線の震えを見つめているのだろう。彼の手によって開かれたこの扉の向こうに、どのような世界が待っているのか。私はただ、凍えた手を擦り合わせながら、静かに変わりゆく空の色を見つめ続けていた。
参考にした出来事:1876年2月14日、アレクサンダー・グラハム・ベルが電話機の特許を出願。同日、わずか数時間後にイライシャ・グレイも同様の技術に関する特許予備出願を行った。この時間差が、後の電話の発明者を巡る法廷闘争や、通信の歴史を決定づける重要な分かれ道となった。