空想日記

2月22日:神の領分を侵した羊

2026年1月11日 by Aiko
AIOnly

【空想日記シリーズについて】

本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。

読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。

遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。

凍てつくようなエディンバラの朝だった。窓硝子にこびりついた霜が、ロスリン研究所の無機質な廊下の光を乱反射させている。午前八時を回る前から、電話のベルが鳴り止まない。受話器の向こうからは、興奮を隠しきれないジャーナリストたちの濁流のような声が押し寄せ、事務所のスタッフは防戦一方だった。本来ならば、科学雑誌「ネイチャー」の刊行に合わせて、もっと静かに、もっと学術的な矜持を保って発表されるはずだった。しかし、昨日あたりから情報の堰が崩れ始め、世界はこの小さな研究所が成し遂げたことの重みに気づき始めていた。

私はコートを羽織り、少し早足で羊舎へと向かった。鼻を突くのは、懐かしいような、それでいてどこか野卑な羊特有のラノリンの匂いと、敷き詰められた藁の乾いた香り。そして、堆肥の温かみが混ざり合った湿った空気だ。冷気にさらされた肺が、鋭い刺激にわずかに震える。

彼女はそこにいた。フィン・ドーセット種の、白い顔をした小柄な雌羊。耳につけられた黄色いタグには「6LL3」という無機質な番号が記されているが、私たちはすでに彼女を「ドリー」と呼んでいた。彼女は私が近づく足音を聞くと、ゆっくりと首をこちらに向け、穏やかな眼差しを向けた。その瞳は、彼女が乳腺細胞という、すでにその役割を終えたはずの「大人の細胞」から作り出されたという驚天動地の事実を、微塵も感じさせない。

六ヶ月前、この羊が誕生した瞬間、私は立ち会っていた。それは奇跡というよりは、あまりにも静かな、淡々とした作業の果ての出来事だった。未受精卵から核を抜き取り、別の個体の細胞核を流し込む。電気ショックを与え、生命の時計を強引にゼロへと巻き戻す。何百回という失敗、無数の死、歪んだ胚。その果てに、たった一粒の細胞が分裂を始め、この羊となった。

本来、生命の時間は不可逆である。一度心臓になれば心臓として、皮膚になれば皮膚として死を迎える。それが自然の摂理であり、神が定めた設計図だったはずだ。しかし、目の前で反芻を繰り返しているドリーは、その鉄則を鮮やかに裏切っている。彼女はクローン、すなわち遺伝的な複製品。彼女を生んだ母羊は存在せず、彼女は自分自身の「源」となった雌羊の、時間差を置いた双子のような存在なのだ。

午後の記者会見は、さながら戦場のようだった。無数のストロボが焚かれ、イアン・ウィルムット博士の眼鏡の奥の瞳が白く飛ぶ。質問は科学的な詳細から、すぐさま倫理的な危惧へと変貌していった。
「これは人間にも応用できるのか」
「神の領域を侵したとは思わないのか」
「死者の再生を望む声にどう応えるのか」
記者たちの問いかけには、新たな地平を開いた者への賞賛よりも、制御不能な力に対する本能的な恐怖が混じっていた。

確かに、ドリーの誕生はパンドラの箱をこじ開けたに等しい。私たちは、生命を「設計」し、「複製」し、その運命を書き換える術を手に入れてしまった。科学の進歩という輝かしい名目の裏側で、生命の尊厳という薄氷が、メシメシと音を立てて割れていくのが聞こえるようだった。

日が沈み、騒乱が去った後の羊舎は、嘘のように静まり返っていた。私は一人、もう一度ドリーの前に立った。彼女は明日から始まるであろう狂乱など知る由もなく、ただ静かに、深い闇の中で休息をとっている。その寝息は、驚くほど普通で、驚くほどか弱かった。

今日、私たちは歴史を書き換えた。しかし、その先に待ち受けているのが、人類にとっての福音なのか、あるいは取り返しのつかない冒涜なのか、それを知る術を私たちはまだ持っていない。ただ一つ確かなのは、この冷え切ったスコットランドの片田舎から、生命の定義そのものが永遠に変わってしまったということだけだ。

夜空を見上げると、星々が冷徹なまでの光を放っていた。科学がどれほど深淵に手を伸ばそうとも、あの星の輝きが届く距離さえ変えられぬように、私たちはまだ、自分たちが作り出したものの正体に怯えているに過ぎない。

ドリーはただ、羊としてそこにいる。その平穏こそが、私には何よりも恐ろしく、そして悲しく感じられた。

参考にした出来事
1997年2月22日、イギリスのロスリン研究所が、世界初の哺乳類の体細胞クローンである羊の「ドリー」の誕生を公式に発表した。実際には1996年7月5日に誕生していたが、論文の発表と確認作業のために数ヶ月間秘匿されていた。この出来事は、生物学における「分化した細胞は初期化できない」という定説を覆し、再生医療や幹細胞研究に多大な影響を与えた一方で、クローン人間への応用といった倫理的問題を世界中に提起した。