【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
マインツの冬は、骨の髄まで冷気が染み通る。夜明け前の闇に包まれた「フンブレヒト館」の作業場では、凍てつく空気の中に、獣脂の蝋燭が放つ鼻を突く臭いと、煮え立った亜麻仁油の重苦しい香りが混じり合っていた。私の指先は、連日の過酷な労働と寒さで感覚を失いかけているが、それでもこの「黒い煤の芸術」を止めるわけにはいかない。
親方ヨハネス・グーテンベルクは、昨晩から一睡もせずにプレス機の横に立ち続けている。彼の目は血走り、頬はこけているが、その双眸には狂気にも似た光が宿っていた。彼は、この数年間、金細工師としての技術の全てを、そしてフスト氏から借り入れた膨大な資金の全てを、この「動く文字」という奇怪な発明に注ぎ込んできた。
作業台の上には、鏡文字に彫られた鉛、錫、アンチモンの合金が整然と並んでいる。かつて写字生たちが一生をかけて一文字ずつ書き写してきた神の言葉を、我々は「鋳型」という冷徹な器の中に閉じ込めたのだ。文字を一つずつ拾い、定規の上で正確に行を整えていく作業は、気が遠くなるほど緻密だ。しかし、一度その「版」が完成してしまえば、あとは繰り返すだけだ。同じ質の、同じ美しさを持った聖書が、機械の力で次々と産み落とされていく。
私は、煤と油を練り合わせた粘り気のある特製のインクを、鹿革のタンポで版の上に叩きつける。湿り気を帯びた厚手の紙を慎重にセットし、親方の合図を待つ。
「引け」
低い、掠れた声が響く。私は全身の重みをかけて、プレス機の巨大なレバーを引き絞った。木製のネジが軋み、重厚な圧盤が紙を金属の文字へと押しつける。この瞬間、空間には沈黙が支配する。心臓の鼓動だけが、この薄暗い部屋の中で雷鳴のように鳴り響いているように感じられた。
レバーを戻し、ゆっくりと紙を剥がす。そこには、完璧なまでの均整を保った四十二行の文字が、漆黒の輝きを放って定着していた。一分の乱れもないゴシック体。職人が手書きで数ヶ月を要するページが、今、まばたきをする間に完成したのだ。
親方は震える手でその紙を掲げ、蝋燭の火に透かした。インクの乗り、文字の輪郭、余白の調和。彼は満足げに頷き、そして小さく十字を切った。
「これで、神の言葉は一部の特権階級の独占物ではなくなる。光が、津波となって世界へ広がるのだ」
その言葉に、私は身震いした。これは単なる印刷ではない。これは、記憶と知識のあり方を変える革命だ。修道院の奥深くで鎖に繋がれていた知識が、このプレス機という檻から解き放たれ、国境を越え、身分を超え、野火のように広がっていく光景が、私の脳裏をよぎった。
窓の外では、ようやくライン川の向こうから白々とした夜明けが始まろうとしている。マインツの街はまだ眠りの中にあり、この小さな工房で世界の歴史が塗り替えられたことに気づく者は誰もいない。だが、今日この日に産声を上げた一頁の聖書が、やがて王の権威を揺るがし、教会の壁を穿ち、名もなき民衆の手に思考の武器を与えることになるだろう。
私の手は黒く汚れ、爪の間にまでインクが入り込んでいる。この汚れは、どれほど洗っても落ちることはないだろう。だが、私はこの誇り高い汚れと共に、歴史が転換する瞬間の目撃者として、再び重いレバーを握るのだ。神の言葉を、この世の果てまで届けるために。
参考にした出来事:1455年2月23日、ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷術を用いて、史上初の量産印刷物とされる「グーテンベルク聖書」(四十二行聖書)の印刷を開始したとされる。これにより、それまでの手書き写本に代わって情報の大量複製が可能となり、宗教改革や科学革命の基盤となる情報革命が引き起こされた。