【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
ベルンの朝は、いつも同じ香りから始まる。淹れたての強いコーヒーと、焼きたてのパン。そして、アルベルトが吸う葉巻の仄かな残り香。しかし今朝は、そのいつもの香りに、一種の張り詰めた空気が混じっていた。アルベルトはいつになく落ち着きがなく、食卓の椅子に座りながらも、その視線は壁にかかった時計と、書斎の扉を交互に行き来していた。
「もう出発するのかい?」と私が尋ねると、彼ははっとしたように顔を上げ、私の手元にある論文の束を見た。茶色の分厚い封筒に収められたそれは、この数週間、いや数ヶ月、私たちの生活の中心にあった。埃をかぶった書斎の机に積み上げられた計算用紙の山、夜中の低い呻き声、そして時折、はっと息を呑むような彼の声。それら全ての結晶が、今、私の手のひらに載っている。
「ああ、これを。これを郵便局へ持っていくのだ」
彼の声は、わずかに震えていた。その顔には、長きにわたる精神的な疲労と、それにも勝る高揚感が見て取れた。疲労は彼の目の下に暗い影を落としていたが、その瞳は、まるで遠い星の光を宿したかのように輝いていた。
「『分子の大きさの新しい決定』。そして、『浮遊する粒子が静止液体中で必要とされる運動について』」
私が封筒に書かれたタイトルを読み上げると、彼はうん、と頷いた。
「特に後者だ、ミレーヴァ。ブラウン運動。誰もが観察し、しかし誰も説明できなかった、あの小さき粒子の絶え間ない、気まぐれな舞踏。私がそれに見出したのは、分子たちの存在なのだ」
彼の言葉は、まるで熱病のように私に伝染した。私が大学で物理を学んだのは、もうずいぶん前のことだ。あの頃の夢は、アルベルトのそれに勝るとも劣らない情熱を帯びていた。しかし、今、私の手には幼いハンス・アルベルトとエーベルハルトの世話、そして家事がある。それでも、彼の言葉が織りなす世界は、私にとって常に魅力的だった。彼の言葉を聞くたびに、私は再びあの講義室の興奮を思い出すのだ。
「水面に浮かぶ花粉の微粒子が、なぜあのように不規則に震え続けるのか。それは、眼に見えぬ無数の水分子が、絶えず花粉に衝突しているからなのだ。まるで小さな子供たちが、大きなボールをあちこちから突き動かすように。その統計的な法則を、私は数式で捉えた」
彼はそう言って、椅子から立ち上がった。書斎の窓から差し込む朝の光が、彼の顔の輪郭を柔らかな金色に縁取った。
「これは、目に見えぬ世界の真実を証明する。原子や分子が単なる仮説ではなく、実際に存在する証拠となる」
彼の言葉には、揺るぎない確信があった。その自信の裏には、どれほどの孤独な思索と、絶望にも似た探求があったことか。私はその全てを、このベルンの小さなアパートの一室で、彼の隣で見てきた。夜遅くまで机に向かい、計算し尽くされた紙が床に散乱し、時折、大きなため息をついたり、あるいは小さな喜びの声を上げたりする彼の姿を。
私は黙って、彼の差し出す封筒を受け取り、その重みを改めて感じた。これは単なる紙の束ではない。これは、未知への挑戦であり、世界の根本を解き明かす鍵となるかもしれないものだ。
「これで、スイス特許庁の仕事にも、少しは集中できるだろうさ」
アルベルトは冗談めかして言ったが、その声はまだ上擦っていた。
「いいかい、ミレーヴァ。これはまだ始まりに過ぎない。しかし、この一歩が、いずれ大きなうねりを生むはずだ」
彼は、少しばかり皺の寄った上着を羽織ると、私の頬に軽くキスをした。その唇は、ほんのりコーヒーの香りがした。
「行ってくる」
「気をつけて」
扉が閉まる音。そして、数段の階段を降りていく彼の足音。やがて、その音も聞こえなくなった。
部屋に残されたのは、静寂と、彼の言葉の余韻だけだった。私は窓辺に立ち、通りを歩く彼の姿を追った。あの猫背気味の、どこか浮世離れした歩き方。彼の頭の中では、今も無限の宇宙が広がり、新しい着想が渦巻いているのだろう。
郵便局へ向かう彼を見送りながら、私は漠然と、しかし確かな予感に包まれていた。
この、ごく平凡なベルンのアパートの一室で、今朝、世界はほんの少し、その姿を変える種を蒔かれたのだ。そして、それがいつの日か、満開の花を咲かせることを、私は信じて疑わなかった。
参考にした出来事:
1905年5月11日、アルベルト・アインシュタインがブラウン運動に関する画期的な論文「熱の分子論的運動論によって要求される、静止液体中に浮遊する粒子の運動について」を学術誌『アナーレン・デア・フィジーク』(物理学年報)に提出。この論文は、当時まだ仮説であった原子や分子の存在を間接的に証明する重要な根拠となり、物理学界に大きな影響を与えた。