【空想日記シリーズについて】
本シリーズは、歴史上の「今日」という日にスポットを当て、当時の人々の視点で綴られる「もしも」の日記です。
読者の皆様に、歴史的な出来事をより身近に、臨場感をもって感じていただくための試みであり、掲載されている内容は史実に基づいた着想を得てAIによって生成されたフィクションです。特定の個人の記録や、学術的な事実を断定するものではありません。
遠い過去を生きた誰かの心の機微を通して、歴史の新しい一面を楽しんでいただければ幸いです。
午前四時、フォークストンの海岸は、まだ深い藍色の帳に包まれていた。足元に寄せては返す波の音だけが、不気味なほど鮮明に耳に届く。私の視線の先には、闇の中にぼうっと浮かび上がる巨大な、そしてあまりにもか細い影があった。ゴッサマー・アルバトロス。ポリエステルフィルムの薄い膜を透かして、カーボンファイバーの骨組みが、まるで深海魚の肋骨のように規則正しく並んでいる。総重量はわずか三十キログラム余り。この頼りない翼が、私という一人の人間の肉体を載せ、ドーバー海峡という巨大な障壁を越えようとしている。正気の沙汰ではないと、心の一角が冷ややかに囁いていた。
四時五十一分、離陸。ペダルを踏み込むたびに、チェーンが乾いた音を立てて回る。翼が空気を掴み、地面を離れるあの瞬間の浮遊感は、何度経験しても鳥になったような錯覚を私に与える。だが、今日は喜びを感じる余裕などなかった。目指すフランスの岬、キャップ・グリ・ネまではおよそ三十五キロメートル。内燃機関を一切持たず、私の両脚から繰り出される出力だけが、この巨大な蜻蛉を前進させる唯一の動力源なのだ。
高度はわずか一・五メートル。海面が驚くほど近い。透明なマイラー製のコックピット越しに見える波頭は、時折、翼の端に触れんばかりに跳ね上がる。コックピット内部は、早くも私の呼気で湿り気を帯び始め、温度が上昇していく。無線機から聞こえるポールの落ち着いた声が、唯一の現実との接点だった。彼は伴走するボートから、私の対空速度と海面の状況を冷静に伝えてくる。
一時間を経過した頃、私の太腿は、焼けた鉄棒を打ち込まれたような熱を持ち始めた。乳酸が筋肉の繊維一本一本に染み込み、激しい痛みが思考を麻痺させていく。水が欲しい。しかし、ボトルを口に運ぶわずかな動作すら、機体の安定を損なう致命的な要因になりかねない。海風は常に気まぐれだ。微かな突風が吹くたびに、巨大な主翼は波打ち、私は全身の感覚を研ぎ澄ませて操縦桿を微調整しなければならない。集中力が削がれれば、その瞬間にアルバトロスは冷たい海面へと飲み込まれるだろう。
中間に差し掛かった頃、状況は最悪の局面を迎えた。向かい風が強まり、私の対地速度は著しく低下した。どれだけ必死にペダルを漕いでも、景色が止まっているように感じられる。心臓の鼓動が耳の奥で太鼓のように鳴り響き、肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。ポールが無線で「中止するか?」と問いかけてきた。海面との距離は数十センチまで落ち込んでいた。私は答えなかった。ただ、奥歯を噛み締め、視線を前方の水平線、まだ見ぬフランスの海岸線へと固定した。ここで諦めれば、この数ヶ月間の努力も、チームの情熱も、すべてが泡となって消える。
限界を超えた先にある、奇妙な静寂が私を包み込んだ。痛みはもはや痛みとして認識されず、ただ「そこに在る事象」へと変わった。私の意識は、ペダルを回す回転数と、翼の傾き、そして風の鳴り音を統合する一つの演算機へと変貌していた。
不意に、霧の向こう側に茶褐色の影が見えた。フランスだ。キャップ・グリ・ネの断崖が、私を呼んでいる。その光景が目に飛び込んできた瞬間、枯れ果てていたはずの肉体に、最後の一滴の力が沸き上がるのを感じた。
午前七時四十分。アルバトロスのタイヤが、フランスの砂浜に触れた。その衝撃は、驚くほど柔らかく、そして決定的な重みを持っていた。ペダルを止めた瞬間、それまで聞こえていたチェーンの音と私の荒い呼吸音が消え、ただ波の音と、集まってきた人々、そしてボートから駆け寄るチームメイトたちの歓声が周囲に満ちた。
コックピットの扉が開けられ、冷たい潮風が内部に流れ込んでくる。私は自力で立ち上がることすらできなかった。ただ、汗まみれの顔で空を見上げた。あんなにも遠く、恐ろしかった海峡を、私は自分の力だけで越えたのだ。神話のイカロスは太陽に焼かれて墜ちたが、現代のアルバトロスは、人間の意志という目に見えない風を捕らえて、ついに目的地へと辿り着いた。
私の体は震えていた。極限の疲労によるものか、それともこの歴史的な瞬間に立ち会った高揚によるものか、自分でも分からなかった。ただ、目の前に広がるフランスの景色が、涙で少しだけ滲んで見えた。
参考にした出来事:1979年6月12日、アメリカ人のブライアン・アレンが操縦する人力飛行機「ゴッサマー・アルバトロス」が、イギリスのフォークストンからフランスのキャップ・グリ・ネまでの約35.8キロメートルを2時間49分で飛行し、世界で初めて人力による英仏海峡横断に成功した。この機体は航空エンジニアのポール・マクレディによって設計され、極限まで軽量化された構造が特徴である。