短編小説

さけないチーズ

2026年1月2日 by Satoru
AIOnly 奇妙

概要

密着して暮らすことが義務づけられた世界で、唯一の禁忌は「分かつこと」だった。男は、決して繊維が剥がれない奇妙なチーズを裂こうと試みる。自由と個を渇望した末、彼がチーズの最初の一筋を裂くことに成功したとき、世界を繋ぎ止めていた唯一の物理的制約が消失する。男が手に入れた「誰にも触れられない自由」のあまりにも皮肉な正体とは。

世界は一つの塊だった。 家々には隙間がなく、道と庭の境界も曖昧で、人々は常に誰かの肩や腕と触れ合って暮らしていた。この世界において「分かつこと」は不可能な物理現象であり、最大の禁忌でもあった。

その中心にあるのが、配給される「さけないチーズ」だった。それは白くて細長い円柱形の物体で、どれほど力を込めても、鋭利な刃を当てても、決して繊維状に裂けることはなかった。人々はそれを丸かじりし、咀嚼することで、自分たちが不可分な全体の一部であることを再確認した。

ある男は、そのチーズに執着していた。彼は、もしこのチーズを裂くことができれば、自分という存在を他人から切り離し、真の意味で独立できるのではないかと考えていた。

男は数十年をかけて、チーズの構造を研究した。彼は物理的な破壊を諦め、概念的なアプローチを試みた。彼は、言葉の定義を組み替え、チーズを「一つの物体」ではなく「無数の線の集合体」として認識する訓練を積んだ。

ある静かな夜、男はついにその境地に達した。彼は手にしたチーズを見つめ、それが本来はバラバラなものであると心から確信した。

指先に力を入れると、チーズの表面に微かな筋が入った。次の瞬間、奇跡が起きた。あの一体だったチーズが、絹糸のような細い繊維となって、するすると一本ずつ剥がれていったのだ。

男は歓喜した。ついに、不変の象徴を打ち破った。彼は裂けたチーズの束を掲げ、自分だけの自由を確信した。

しかし、異変はすぐに訪れた。

彼が握っているチーズの繊維が、さらに細かく裂け始めた。裂ける勢いは止まらず、原子のレベルまで分解を続けていく。それだけではなかった。

男が座っていた椅子が、数千の木片へと分離した。床を構成していた石材は砂へと戻り、家の壁は塵となって崩れ落ちた。

男は驚いて隣の部屋にいる家族を呼ぼうとした。しかし、駆け寄ってきた家族の体は、彼と視線が合った瞬間に、無数の細胞へと解体された。彼らは悲鳴を上げることさえできなかった。声帯が振動する前に、筋肉と神経がそれぞれ独立した個体として離散してしまったからだ。

街全体が、そして世界そのものが、凄まじい速度で「個」へと分解されていく。服は糸になり、水は霧になり、大地は底なしの粒子へと変わった。

男は自分自身の体を見た。右手が左手と別れを告げ、指が一本ずつ別の方向へ飛んでいく。思考さえもが、単一の意識を保てずに断片化していく。

最後に男が理解したのは、なぜあのチーズが裂けなかったのか、という理由だった。 あれは単なる食品でも、不変の象徴でもなかった。この世界を「一つの世界」として繋ぎ止めていた、唯一の物理的制約だったのだ。

男の意識が完全に霧散する直前、世界にはもはや、彼を認識できる「誰か」も、彼自身を定義する「私」も残っていなかった。ただ、無限に分割され続ける、終わりのない粒子の海が広がっていた。