概要
朝、無意識に避けた「定位置」には、もう誰もいない。空っぽの器、陽だまりの静寂。掃除機の後ろで見つけた一本の白い髭が、止まっていた時間を動かし始める。喪失の先にある、静かな光を描く大人のための物語。
午前六時。アラームが鳴る前に目が覚めるのは、長年の習慣だった。 シーツから這い出そうとして、右足の先をわずかに浮かせる。そこには、昨夜まで確かに存在していた「重み」があるはずだった。しかし、足先に触れたのは、体温を失い、ただ冷やされただけの空気だった。
台所へ向かう足取りが、板張りの床に乾いた音を立てる。 無意識に手が伸びたのは、戸棚の奥にある陶器の器だった。指先がその滑らかな縁をなぞり、ハッとして動きを止める。 「……ああ」 声にならぬ吐息が、冬の終わりの白い朝に溶けていった。 昨日、その器を丁寧に洗い、伏せたのは自分だったはずなのに。
彼は、十五年という月日をこの部屋で共に過ごした。 「あいつ」がいた頃の部屋は、特有の匂いがあった。日向ぼっこをした後の、乾いたおひさまの匂い。少しだけ埃っぽくて、胸の奥をくすぐるような、柔らかな生命の香り。 今は、その匂いの代わりに、洗剤の無機質な香りと、沈黙という名の重力が部屋を支配している。
窓際のアームチェアには、彼が好んで座っていた場所に、丸く窪んだ毛羽立ちが残っている。 午後の日差しが差し込むと、そこには金色の塵が舞った。かつては、その光の粒子を、彼は熱心に前足で追いかけていたものだ。 男は掃除機を手に取ったが、そのスイッチを押すことができなかった。 この床に落ちている、細く、柔らかな灰色の毛を吸い取ってしまえば、彼がここにいた証拠が、この世界から完全に消えてしまうような気がしたからだ。
ふと、テレビ台の裏側に、白いものが落ちているのが見えた。 膝をつき、指を伸ばしてそれを拾い上げる。 それは、一本の立派な髭だった。 根元が太く、先に向かってしなやかに尖った、真珠のような光沢を持つ白。
指先に残るその感触が、記憶の蓋を静かに押し開ける。 仕事で打ちのめされて帰宅した夜、何も言わずに膝の上に乗ってきたときの、確かな温もり。 深夜、キーボードを叩く指にいたずらをしてきた、濡れた鼻先。 最期の瞬間、弱々しく、けれど精一杯に喉を鳴らして応えてくれた、あの振動。
男の視界が、ゆっくりと歪み始めた。 こらえようとして強く目を閉じると、睫毛の隙間から熱い雫がこぼれ、手の甲に落ちた。 それは、彼が去ってから初めて流した涙だった。 「……ありがとうな」 湿った声が、誰もいないリビングに響く。
不思議なことに、涙が止まる頃には、部屋の空気が少しだけ軽く感じられた。 彼がいなくなった穴は、一生埋まることはないだろう。その空白は、彼を愛した時間の長さそのものだからだ。 けれど、男は知っている。 これから先、ふとした瞬間に、この部屋の陽だまりの中に、見えないけれど確かな重みを感じるだろうことを。 それは、悲しみではなく、十五年かけて育んだ「愛」という名の形見なのだ。
男は立ち上がり、ようやく掃除機のスイッチを入れた。 吸い込まれていく毛の一本一本に、心の中でさよならを告げながら。 窓の外では、新しい季節を告げる風が、静かにカーテンを揺らしていた。