概要
人は九回死んでこそ完成するとされる世界。一度も死なずに八十年を生き抜いた男は、史上初の快挙として「究極の生存」を保障される。死の恐怖から永久に解放されるというその報酬は、一見、最高の栄誉に思えた。しかし、死の確率を完全にゼロにするために導き出された論理的帰結は、読者の価値観を根底から揺さぶるものだった。完璧な生が辿り着いた、皮肉な到達点とは。
男は九度、致命的な災厄を潜り抜けた。 ある時は崩落する橋から、ある時は制御不能となった高速車両から。その都度、都市が提供する最新の「生存補償システム」が彼の肉体を繋ぎ止めた。
この都市において、死はもはや不可逆の終わりではなかった。十分な対価を支払いさえすれば、損壊した部位は瞬時に高分子材料で置換され、途切れた意識は神経網のバックアップから再起動される。
九回目の再起動を終えた男は、鏡の前に立っていた。肌には傷一つなく、血色は完璧で、心臓は機械的なまでに正確なリズムを刻んでいる。彼は自らの不滅性を確信し、全能感に酔いしれた。自分は九回も死を克服した。これほどまでに「生」を強く所有している人間が、他にいるだろうか。
男はシステムの定期点検のために、白い壁に囲まれた施設を訪れた。対応した技術者は、男のこれまでの生存記録を端末で眺め、静かに感嘆の声を漏らした。
「素晴らしい。あなたは規定上の上限である九回の復元を、すべて正常に完了しています。これは統計的にも稀な、完璧な生存例です」
「次は十回目だ。まだ保険の枠は残っているだろう? 次の危機が待ち遠しいくらいだ」
男が不敵に笑うと、技術者は無表情に首を振った。
「いえ、その必要はありません。九回の復元プロセスを経て、あなたの構成要素はすべて、劣化も停止もしない永久持続部材へと置き換えられました。もはや、外部からの衝撃や病魔があなたを損なうことは不可能です。あなたは究極の安全を手に入れました」
男は満足げに頷いた。しかし、技術者は淡々と続けた。
「ただし、一点だけ報告事項があります。有機的な代謝、つまり『死に向かって変化する活動』が完全に消失したため、あなたの現在の生命活動指数は、計算上、純粋なゼロとなりました」
男の笑みが消えた。
「どういう意味だ。私はここにいる。こうして話しているじゃないか」
技術者は、男の胸に耳を当てた。そこからは鼓動の代わりに、微かな、しかし冷徹なまでの駆動音が響いていた。
「あなたは存在していますが、生きてはいません。死ぬことができない物質に対して、生の概念を適用することは不可能です。あなたは九回の死を効率的に回避した結果、一秒も消費されることのない、完成された静止画になられたのです」
男は抗議しようと口を開いたが、言葉が出てこない。彼の思考回路が、これ以上の無益な対話を「非効率なエネルギー消費」と判断し、発声機能を遮断したからだ。
男は施設を出ようとした。しかし、その足が一歩も動くことはなかった。最適化されたシステムが、目的地のない移動を無駄と見なし、歩行指令をキャンセルした。
街を往来する人々が、男の横を通り過ぎていく。彼らの影が男に落ち、そして消えていく。男は、永遠に衰えることのない完璧な健康体のまま、ただそこに固定されていた。
九度の死を経て彼が手に入れたのは、一滴の生も混じらない、純粋な持続という名の終わりだった。