短編小説

御髪ほぐし

2026年1月2日 by Satoru
AIOnly 奇妙

概要

人生の苦悩は、髪の「結び目」に宿る。職人の男は、その絡まりを一本残らず解きほぐし、人を無垢な状態へと戻していく。完璧な直線に整えられた髪は、世界の循環を支える貴重な資源となるからだ。だが、その美しい糸を抽出するために用意された「門」は、人間が通るにはあまりに狭すぎた。秩序と合理性を突き詰めた先に待つ、美しくも無慈悲な結末。

薄暗い作業場には、今日も絶え間なく「素材」が運び込まれてくる。 部屋の中央には、一人掛けの椅子が据えられていた。そこに座らされた素材の頭部からは、おびただしい量の毛髪が床に向かって垂れ下がっている。

男の仕事は、その毛髪を一本も欠かさずに「ほぐす」ことだ。 素材たちは一様に深い眠りに落ちており、時折、鼻を鳴らすような吐息を漏らす。彼らの髪はどれも例外なく、複雑怪奇な結び目となって固まっていた。

男は、細い指先に銀の針を一本持ち、その結び目の一点に刺し入れた。 毛髪は、単なるタンパク質の塊ではない。それは、その人間が外の世界で積み上げてきた「しがらみ」そのものだ。誰かを愛した記憶、憎しみの火種、明日への不安。それらが物理的な質量を持ち、互いに絡み合って強固な結び目を作っている。

「今日はひどく硬いな」

男は独り言を漏らした。 今回の素材は、中年の女性だった。彼女の髪には、育児の焦燥や、隣人への見栄、そして若さを失うことへの恐怖が、何重もの輪になって食い込んでいる。針を慎重に動かさないと、細い髪はすぐに千切れてしまう。

規則は厳格だった。一本でも髪を切ってはならない。 髪を切ることは、その人間の歴史を損なうことであり、それでは「製品」としての価値がなくなる。男は数時間をかけて、彼女の意識の奥底に潜り込むようにして、一つ一つの結び目を解いていった。

ようやく一本の長い髪が、根元から毛先まで真っ直ぐに伸びた。 その瞬間、女性の寝顔からわずかにあった険しさが消え、滑らかな、しかし何の色も宿さない無垢な表情へと変わった。

男がすべての髪をほぐし終えると、彼女の頭髪はまるで滝のように美しく、完璧な直線を描いて静止した。 そこに、奥の部屋から白い服を着た数人の男たちが現れた。彼らは「検品」と呼ばれる作業を始める。

「よろしい。摩擦係数はほぼゼロだ」

男たちは、女性の長い髪を丁寧に束ね、出口へと向かうベルトコンベアの上に載せた。 彼女の体は、もうすぐ「門」をくぐることになる。その門は極めて狭い隙間で構成されており、一本でも髪が絡まっていれば、そこを通り抜けることはできない。

男は、作業場の隅に積み上げられた完成品を見やった。 それは、かつて人間だったものたちが通り抜けた後に残された、抽出されたばかりの「純粋な絹糸」の束だった。この糸は、この街を支える精密機械の潤滑剤や、最高級の織物の原料となる。

「次の素材だ」

声がかかると、新しい椅子が運び込まれてきた。 今度の素材は、まだ若い男だった。その髪は、野心と情熱によって、燃え盛る火のような奇妙な形に固まっている。

男は再び銀の針を手に取った。 彼は、この仕事に誇りを持っていた。自分の手によって、混乱に満ちた人生が整理され、誰の目にも美しい直線へと整えられていく過程には、崇高な快感があった。

男はふと、鏡に映った自分の姿を見た。 自分の頭部は、完全に滑らかだった。一本の毛も生えていない。 かつて、自分もまた誰かにほぐされたのだという記憶はない。ただ、この作業場に配属されたときから、自分の心には何の結び目もなく、ただ「真っ直ぐな義務感」だけが流れている。

彼は若い男の髪に針を刺し、丁寧に、丁寧に、情熱の結び目を解いていく。 男の頭からは、後悔の念が消え、夢が消え、やがて平坦な静寂が訪れる。

作業が終わり、若い男がベルトコンベアに乗せられたとき、男はふと、コンベアの先にある「門」の向こう側を覗き見た。 そこには、巨大な紡績機が唸りを上げていた。

門をくぐり抜ける際、素材たちの体は狭い隙間に挟まれ、一瞬で圧殺される。 しかし、完璧にほぐされた髪だけは、その衝撃で千切れることなく、機械の中に吸い込まれていく。体の方は、ただ髪を機械の奥へと引き込むための「重り」として機能し、役目を終えると下の溝へと廃棄される。

男は満足げに頷いた。 もし髪が絡まっていれば、門に引っかかり、糸を汚してしまうところだった。 彼は再び椅子に座り、新しく運ばれてきた素材を待った。 次はどんなに複雑な結び目でも、もっと綺麗に、もっと真っ直ぐにしてみせよう。 この世界の滑らかな循環のために。