昨日の明日:進んでいるようで、同じ場所をループしている時間。
その男は、完璧な未来を手に入れるための窓口に立っていた。
目の前の透明な壁の向こう側には、事務的な手つきで書類を捌く係員が座っている。男が求めているのは、あらゆる苦痛や無駄が排除された「理想の明日」への通行許可証だった。
「手続きには、相応の対価が必要です」
係員は顔を上げずに言った。この場所では、通貨の代わりに個人の経験や記憶が取引されている。より優れた未来へ進むためには、それに見合うだけの「過去」を差し出さなければならない。
男は迷わず、自分の中に積み重なった不要な記憶を差し出した。幼い頃に転んで泣いた記憶、真夏に信号待ちをして汗をかいた不快感、深夜まで続いた単調な仕事の記録。それらは男にとって、輝かしい未来の足枷でしかなかった。
係員は計量器にそれらを乗せ、数値を確認した。
「まだ足りませんね。これでは、せいぜい一週間後の平凡な火曜日までしか届きません。あなたが望む『理想の明日』は、もっと高い場所にあります」
男は焦った。彼はさらに差し出した。学生時代の挫折感、恋人と別れた時の喪失感、そして長年蓄積してきた将来への不安。それらをすべて差し出すと、計量器の針は一気に最大値まで振り切れた。
「よろしい。これであなたは、すべての障害から解放された『究極の未来』に到達できます」
係員が印を押し、重厚な扉が開いた。男は期待に胸を膨らませ、眩い光の中へと足を踏み入れた。
扉の先は、音も匂いもない、純白の空間だった。そこには不快な暑さも、退屈な待ち時間も、心を乱す他者も存在しない。男はついに、完璧な安寧を手に入れたのだ。
しかし、数分が経過した頃、男は奇妙な感覚に襲われた。
彼は自分が「幸福である」ということを実感しようとしたが、その感覚が掴めなかった。かつて感じたことのある「幸福」と比較しようにも、基準となる「苦痛」や「不満」の記憶をすべて売却してしまったからだ。彼は今、自分が立っている場所がどれほど素晴らしいのかを理解するための、一切の尺度を失っていた。
男は空虚さに耐えかね、開いたままの扉を引き返し、再び係員の前に立った。
「ここには何もない。私は、この『理想』を味わうための感情が欲しいんだ」
係員は初めて男の目をまっすぐに見つめた。
「それを感じるには、『対比パッケージ』の導入が必要です。喜びを知るための悲しみ、達成感を知るための徒労、安らぎを知るための焦燥。それら一式が必要です」
「それをくれ。いくらだ?」
「先ほどと同じ分量です。つまり、あなたの『未来』を三十年分、担保として頂きます」
男は承諾し、手元にあった唯一の資産である「これから過ごすはずだった未来」を差し出した。係員は手際よく処理を行い、男に一つの箱を渡した。
「この中には、あなたが先ほど手放したものがすべて入っています。これを受け取れば、あなたは再び物事の価値を理解できるようになるでしょう」
男がその箱を開けた瞬間、視界が激しく回転した。
気がつくと、男は再び透明な壁の前に立っていた。手元には、泥臭い過去の記憶と、未来への漠然とした不安が詰まった重い鞄がある。
目の前の係員が、事務的な手つきで書類を捌きながら言った。
「手続きには、相応の対価が必要です。理想の明日へ行きたいのですか?」
男は、自分の記憶が少しずつ薄れていくのを感じながら、どこかで見覚えのある計量器を見つめた。そして、先ほどよりも少しだけ強い渇望を抱きながら、再び鞄を開いた。
「ああ、お願いする。私は、もっといい場所へ行きたいんだ」
時計の針は一秒も動いていなかった。あるいは、一周して元の場所に戻っただけなのかもしれなかった。