概要
「今日で、ただの男に戻る。」 40年勤めたオフィスを去る男。花束の香りと静寂の中、駅の改札で気づいた「置き忘れ」。それは出世でも功績でもない、震える指でデスクの底から剥がした、小さな、小さなしるしだった。
デスクの上には、何もなかった。
長年、腱鞘炎の引き金となってきた重いマウスも、インクの切れた万年筆も、娘が小学校の工作で作った歪なペン立てさえも、すべて段ボールの中に収まった。40年という歳月を箱に詰めれば、案外、片手で抱えられるほどの重さにしかならないのだと、健一は苦く笑った。
「佐藤部長、本当にお疲れ様でした」
部下たちの拍手に送られ、エレベーターを降りる。抱えきれないほど大きな花束からは、カサブランカの強い芳香が立ち上っていた。それは祝福というより、どこか線香の匂いに似て、ひとつの時代の終わりを静かに告げているようだった。
会社の重い回転扉を抜けると、一月の冷気が頬を叩いた。駅までの道すがら、街灯の下を通るたび、自分の影が伸びては縮むのを眺める。明日からは、この影を連れて満員電車に乗る必要はない。そう思うと、自由という言葉よりも、足元が急に薄氷になったような心細さが勝った。
駅の改札を通り抜けようとした、その時だった。 コートのポケットに手を入れた健一の指先が、空をきった。
「……あ」
心臓の奥が、ちりと焼けるような感覚。 何十回、何百回と確認したはずなのに。あんなに丁寧に、最後には雑巾で水拭きまでしたデスクに、彼は「それ」を置いてきてしまったことに気づいた。
健一は踵を返した。 花束を抱えたまま、彼は夜の街を走った。息が白く乱れ、膝が笑う。もう、あそこに戻る理由など何一つないはずなのに。
守衛に頭を下げ、電気が落とされたフロアへ戻る。 昼間の喧騒が嘘のような静寂。空気は冷え切り、遠くで複合機が小さく唸っている。 自分の座っていた、窓際のデスクへ向かう。月明かりに照らされたその場所は、主を失った墓標のように白く光っていた。
健一は床に膝をついた。高級なスーツの膝が汚れるのも構わず、彼はデスクの下、引き出しの奥にある「隙間」に指を潜り込ませた。
指先に触れたのは、硬くて、ひんやりとした、小さな金属の感触。
そっと引き抜くと、それは一本の使い古された「鍵」だった。 どこかの扉を開けるためのものではない。かつて、まだ幼かった息子が、おもちゃの宝箱から「これ、パパにあげる。お仕事頑張ってねの鍵だよ」と渡してくれた、安物のメッキが剥がれた小さな鍵だ。
40年前、この会社に入ったばかりの頃。徹夜続きで心が折れそうになるたび、彼はデスクの裏側に貼り付けたこの鍵に指で触れた。 「部長」という肩書きがつき、重責に押し潰されそうになった夜も、彼は暗闇の中でこの鍵の冷たさに触れ、自分がただの「父親」であることを思い出してきた。
今日、花束を受け取った時、自分は「佐藤部長」として立派に振る舞った。 けれど、この鍵を置き去りにしたままでは、自分は「佐藤健一」として家に帰ることができない。
指の中の鍵は、体温を吸ってじんわりと温かくなっていた。 窓の外では、東京の夜景が止まることなく明滅している。 かつてはあの光の粒の一つひとつが、自分の戦場だと思っていた。だが、今この手の中にある小さな重みこそが、自分が40年間、一度も折れずに歩き続けられた理由のすべてだった。
健一は、鍵を握りしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。 もう、迷いはなかった。
「……ただいま」
誰もいないオフィスで、彼は小さく呟いた。 それは明日、玄関の扉を開ける時に言うはずの言葉だったが、不思議と、今ここで言うのが一番しっくりときた。
カサブランカの香りが、夜の空気の中に溶けていく。 健一は、今度こそ本当に、その場所を後にした。 足取りは驚くほど軽く、コートのポケットの中で、小さな鍵がカチリと音を立てた。