短編小説

琥珀色の針跡

2026年1月3日 by Satoru
AIOnly 泣ける

概要

不器用な父が遺した、一足の小さな靴。埃を被った工房でそれを見つけた時、私は父が言葉にできなかった「祈り」を初めて知る。日常の景色が滲んでいく、喪失と再生の物語。あなたの心に静かな涙を届けます。

 父が最後に残した音は、ひどく静かなものだった。

 通夜を終えた翌朝、家の空気はどこか密度を増したように重く、湿っている。台所のテーブルには、昨日誰かが淹れたまま忘れていった紅茶のカップが、茶渋の輪を作って冷え切っていた。窓から差し込む冬の光は、空中に舞う細かな埃を容赦なく照らし出している。

 私は、勝手口の横にある父の工房の扉を開けた。  そこには、昨夜まで誰かがいたような気配と、それとは正反対の、永遠に時が止まってしまったような静寂が同居していた。鼻を突くのは、使い古された革の匂い、松脂の微かな香り、そして父が愛飲していた安物の煙草の残り香だ。

 父は靴職人だった。  私の記憶にある父の背中は、いつも琥珀色の電球の下で丸まっていた。夕食の席に彼が座っていることは稀で、たまに顔を合わせても、爪の間に黒く染み込んだインクと、深く刻まれた指の節を眺めながら、私たちは何を話せばいいのか分からなかった。

「道具は、言葉よりも正確に持ち主を写すんだ」

 幼い頃、一度だけ父がそう言ったことがある。当時の私には、その言葉の意味が分からなかった。参観日に来ない父も、就職祝いに無骨な革のパスケースを無言で差し出した父も、私にとっては「冷淡で不器用な同居人」に過ぎなかった。

 作業台の隅に、見慣れない包みが置いてあった。古びた新聞紙に包まれ、ビニール紐で何重にも縛られている。私はそれを解き、中から現れたものを見て、息を呑んだ。

 それは、一足の小さな、赤い子供靴だった。

 革はひどくひび割れ、色は褪せている。しかし、その靴底には、父の筆跡で小さく、私の名前と「四歳」という文字が記されていた。    思い出した。私が四歳の頃、大好きな赤い靴を履いて公園へ行き、水溜まりに飛び込んで台無しにしたことがあった。私は泣きじゃくり、母は困り果てていた。けれど、あの時、父がどうしたのかの記憶が抜け落ちている。

 靴を手に取ると、驚くほど軽い。  裏返してみると、そこには無数の「針跡」があった。破れた革を継ぎ、何度も何度も補強された跡だ。不器用な父が、夜を徹して、小さな娘の泣き顔を消すために一針ずつ刺し通したであろう、歪で、けれど力強い糸の軌跡。

 その靴の中に、一枚の小さなメモが折り畳まれていた。  黄ばんだ紙に、掠れた鉛筆の文字。

『歩け。痛くないように、道が平らであるように』

 喉の奥が熱くなり、視界が急激に歪んだ。  私は、父が一度も私を抱きしめてくれなかったと思っていた。愛しているという言葉を、一度も聞いたことがないと思っていた。けれど、この工房で、父は私の人生をずっと、手の中で支えていたのだ。私が歩く一歩一歩が痛まないように、見えない場所で、何度も、何度も、針を動かして。

 私は赤い靴を胸に抱き、冷たい作業台に額をつけた。  もう、父の指の匂いも、皮を叩くハンマーの音も、ここには戻ってこない。  けれど、私の足の裏には、父が仕立ててくれた目に見えない確かな「温もり」が、今も、そしてこれからも残り続けていることに気づいた。

 窓の外では、雪解けの水が雨樋を伝って、リズミカルな音を立てていた。  私はゆっくりと立ち上がり、自分の履いている靴の紐を、いつもより少しだけ強く結び直した。