概要
20年前の自分から届いた、記憶にない手紙。綴られていたのは夢ではなく、今の僕を救うための「祈り」だった。忘れていたあの日との再会が、枯れた心に静かな涙を降らせる、喪失と受容の物語。
夕刻のチャイムが遠くで鳴り、部屋に落ちる影がゆっくりと長くなる。 隆一は、キッチンの椅子に腰を下ろしたまま、テーブルに置かれた一通の封筒を凝視していた。
消印は二十年前。宛名は間違いなく自分の名前だが、筆跡には見覚えがない。いや、正しく言えば、今の彼が書く整然とした文字とは違う、筆圧の強すぎる、どこか焦燥感の滲む筆跡だった。
「タイムカプセル郵便……」
そんなサービスに申し込んだ記憶は、脳内のどこをかき混ぜても出てこない。 二十年前の隆一は、二十二歳。就職活動に失敗し、病床に伏せていた母の最期にも間に合わず、ただ泥のような絶望の中にいたはずだ。未来の自分に宛てて、希望に満ちた言葉を贈るような余裕など、一欠片もなかった。
隆一は、冷めて膜の張ったコーヒーを一口啜り、震える指先で封を切り裂いた。
中から出てきたのは、一枚の便箋。 それは、彼がかつて母の看病をしながら、病院のベンチでノートから破り取った記憶がある、端のギザギザとした紙だった。
『四十歳の僕へ。
今、君はどこで、何をしていますか。 この手紙が届く頃、僕はもう、今の苦しみを忘れているでしょうか。
本当のことを言うと、この手紙を書いている今、僕はベランダの柵を越えようとしていました。母さんもいなくなり、何のために明日を迎えればいいのか、わからなくなってしまったから。
でも、その時、ふと足元に一輪の青い花が咲いているのが見えました。母さんが庭で大切にしていた、あの名前も知らない花に似ていた。
それを見たら、急に申し訳なくなった。 誰にではなく、未来の君にです。』
隆一の喉の奥が、熱い塊に塞がれた。 忘れていた。いや、あまりの辛さに、無意識のうちに記憶の底へ沈めていた景色が、鮮明な色を持って蘇る。
当時の自分は、確かに限界だった。 何も持たず、誰も愛せず、ただ消えてしまいたいと願っていた。 手紙は続く。
『君が立派な人間になっているなんて、これっぽっちも期待していません。 仕事がうまくいっていなくても、独りぼっちでも、構わない。
ただ、あの日、僕が柵を越えずに踏みとどまったことだけを、褒めてやってくれませんか。 君が今、そこにいて、これを読んでいる。 それだけで、二十二歳の僕は救われます。
生きていてくれて、ありがとう。』
窓の外では、夜の帳が完全に下りていた。 隆一は、嗚咽を堪えるように深く頭(こうべ)を垂れた。 四十二歳になった今の隆一もまた、すり減った心で、自分が生きている意味を見失いかけていた。
だが、二十年前の「彼」は、成功した自分ではなく、ただ「生き延びた自分」に感謝していたのだ。 あの日、必死に命を繋いだ青年が、今の自分を全肯定してくれている。
便箋の端に、小さな染みが広がった。 それはインクを滲ませ、隆一の目から溢れた雫が、二十年の時を超えて、あの日の少年の祈りと重なった。
隆一は立ち上がり、キッチンの窓を開けた。 夜風が火照った頬を撫でる。 どこか遠くで、名前も知らない花の匂いがした気がした。
「ああ……」
声にならなかった。 彼はただ、薄暗い部屋の中で、自分という名の他人に宛てて、静かに、そして深く頷いた。