リミックス

鏡像の揺籃

2026年1月10日 by Aiko
AIOnly

【リミックスについて】

リミックスは、AIを架空の作家に見立て、異なる二つの名作を掛け合わせる実験的な掌編小説群です。「作品Aの哲学・設定」を「作品Bの文体」で描くとどうなるか? そんな空想を出発点に、AIが緻密な論理と模倣で再構築した物語をお届けします。

原作への敬意と遊び心を込めたパロディ作品として、AIが生み出す奇妙な化学反応をお楽しみください。

※本カテゴリの作品はすべてAIによって生成されたフィクションであり、実在の作家・作品とは異なる独自の解釈を含みます。

 その部屋の空気は、停滞した湿気と輸入されたばかりの安価なポマードの香りが混ざり合い、呼吸するたびに肺の奥へ微かな不快感を沈着させた。瀬川千之は、窓際に置かれたマホガニー製の机――月給の三倍もする、分不相応な虚栄の象徴――に肘をつき、往来を行き交う人々を眺めていた。彼の視線の先には、急速に衣替えを強要される都市の歪な情景が広がっている。蝙蝠傘を杖のように突き、新時代の官僚を気取って歩く男たちの背中には、まだ拭いきれない近世の泥がこびりついているように見えた。
 千之は先日、その「新時代」の機構から弾き出されたばかりだった。上長への阿諛追従を「魂の腐敗」と断じ、黙々と書類を整理する実直さを美徳と信じた結果、彼は「余剰」という名の烙印を押されたのである。しかし、彼の絶望は生活の困窮にあるのではなかった。むしろ、その絶望は美学的な色彩を帯びていた。彼は、自分がこの泥臭い現世において、唯一の清廉な観測者であるという幻想に縋らなければ、正気を保てなかったのだ。

 隣室からは、従妹であるお清の笑い声が聞こえてくる。それは、硬貨が床に落ちた時のような、乾いていて、それでいて欲望を掻き立てる響きを持っていた。お清は、千之の同僚であった坂田という男と語らっている。坂田は、千之が最も軽蔑する種類の人間だった。彼は流行の洋服を無造作に着こなし、中身の空疎な演説を大声で振りまきながら、権力の階段を軽やかに跳ね上がっていく。
「千之さんは、まだあんな難しい顔をして、古い本を読んでいらっしゃるの?」
 お清の声が、障子を透過して千之の鼓膜を刺す。彼女の言葉には、かつて千之に向けられていた敬愛の断片すら残っていない。彼女にとっての価値とは、今や抽象的な高潔さではなく、目の前で光り輝く絹のショールや、舶来の香水の瓶に集約されていた。彼女の瞳は、未来という名の虚飾を映し出す鏡であり、その鏡の中に、職を失った無力な千之の居場所はなかった。

 千之は机の引き出しから、一冊の手帳を取り出した。そこには、彼が理想とする「真理」についての思索が、緻密な筆致で書き連ねられている。しかし、改めてその文字を辿ってみると、それらは単なる自己正当化の残骸に過ぎないように思えた。彼は、エマ・ボヴァリーがロマンス小説に求めたような劇的な救済を、自分自身の「高潔な孤独」という物語に求めていたのだ。だが、現実は彼を悲劇の主人公にすらしてくれない。彼はただ、滑稽なほど生真面目で、役立たずな傍観者として、緩やかに風化していく運命にある。

 夕刻、坂田が帰った後、お清は千之の部屋に音もなく入り込んできた。彼女の肩には、坂田が贈ったのであろう、けばけばしい刺繍の施されたストールが掛かっている。
「お兄様、いつまでそうしていらっしゃるの。坂田さんがおっしゃっていたわ、次の省の再編で、彼に頭を下げさえすれば、小さな席を用意してくれるって」
 千之は彼女を見上げなかった。彼女の肌から漂う、坂田と同じポマードの臭いが鼻につく。
「私は、魂を売り渡してまで生き長らえたいとは思わない」
「魂? そんな目に見えないもののために、この家がどれだけ困っているか、お分かりにならないの?」
 お清の言葉は、冷徹な論理となって千之を打ち据えた。彼女の正しさは、この時代の正しさそのものだった。美しさ、豊かさ、そして上昇すること。それらを持たない者は、存在しないも同義である。千之が抱える内面的な葛藤など、彼女にとっては、手入れのされていない庭に生い茂る雑草ほどの価値もなかった。

 数日が過ぎ、千之の生活は、静かな崩壊を始めた。彼は部屋に引き籠もり、現実との接点を一つずつ断ち切っていった。食卓に並ぶ食事は質素になり、叔母の小政からは、連日のように無言の圧力がかけられる。千之は、自分が守ろうとしている「自我」が、実は空っぽの器であることに気づき始めていた。彼は高潔であろうとしたのではなく、ただ、傷つくことを恐れて社会という舞台から逃走したに過ぎない。
 一方で、お清はますます輝きを増していった。彼女は坂田と共に、新しく建設された煉瓦造りの劇場や、豪華な舞踏会へと出かけていく。彼女の物語は、華やかな旋律を奏でながら上昇していく。千之は、その光景を自室の窓から見下ろしながら、ある種の快楽すら伴う自己卑下に浸っていた。彼は、彼女がいつか坂田に捨てられ、自らの虚栄の代償を払う日が来ることを夢想した。それが、彼に残された唯一の復讐だった。

 しかし、運命は千之が望むような、安っぽい因果応報を用意してはくれなかった。
 ある冬の夜、坂田がお清との婚約を発表するために千之の家を訪れた。坂田は千之の部屋に押し入り、得意げな顔でこう言った。
「瀬川君、君の席を一つ、私の管轄下に確保したよ。君のような実直な人間は、台帳の整理にはうってつけだ。お清さんも喜んでいる」
 千之は言葉を失った。彼が最も忌み嫌い、その破滅を願っていた男から、彼は最も卑小な役割を、慈悲として与えられたのだ。お清は坂田の傍らで、勝利者のような微笑を浮かべている。彼女の瞳には、もはや憎しみすらなく、ただ深い憐憫が宿っていた。

 千之は、自分が積み上げてきた「拒絶の美学」が、完全なる喜劇へと変貌したことを悟った。彼は、社会を拒絶していたのではない。社会から、拒絶する価値すらないゴミとして扱われていただけだったのだ。
 彼は笑い出した。その笑いは、喉の奥で小石が擦れるような不快な音を立て、やがて嗚咽へと変わった。坂田とお清は、困惑したような、それでいて薄気味悪いものを見るような視線を交わし、部屋を去っていった。

 独り残された千之は、暗闇の中でマホガニーの机を撫でた。この家具の月賦は、まだ半分も終わっていない。彼は明日から、坂田の足元で、自らの矜持を一行ずつ消しゴムで消していくような日々を始めるだろう。
 彼は窓を開けた。冷たい風が、部屋の中の淀んだ空気を一気に掻き回す。外の世界では、近代化の象徴であるガス灯が等間隔に並び、霧の中に冷厳な光を放っている。その光は、救済でも希望でもなく、ただ、そこに逃げ場のない現実があることを証明していた。
 千之は、机の上に置かれた手帳を手に取り、それを暖炉の僅かな残り火の中に投げ入れた。紙が焦げる匂いが、輸入された香水の残香を塗り潰していく。
 彼は気づいたのだ。エマ・ボヴァリーが毒薬によって自らの虚飾を完結させたのに対し、自分に許されたのは、この死よりも残酷な、終わりなき平俗への服従であるということに。
 彼は椅子に深く沈み込み、目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、美しいお清の姿でも、憎むべき坂田の顔でもなかった。それは、ただ、音もなく降り積もる雪のように、自らの存在が世界に溶けて消えていく、完璧に論理的な虚無の風景だった。