概要
朝、目が覚めて最初にするのは、もういない君の器に水を注ぐこと。14年間、私の歩幅に合わせてくれた君。空っぽの首輪と、消えない陽だまりの匂い。喪失の先に見つけた、静かな「ありがとう」の物語。
午前六時。アラームが鳴る前に目が覚めるのは、長年の習慣だった。 シーツから腕を出すと、いつもならそこにあるはずの、湿った温かな鼻先がない。指先が触れたのは、冷たく乾いたフローリングの感触だけだった。
台所へ向かう足取りは、ひどく軽い。 以前は、後ろから爪が床を叩く「カチカチ」という規則正しいリズムがついてきた。その音が聞こえない空間は、まるで耳抜きがうまくいかない時のように、妙に遠く、静まり返っている。
コンロに火をかけ、やかんが鳴るのを待つ間、私は無意識に足元を避けて歩いた。そこには、使い古された陶器の器がある。 昨日、中身を空にして洗ったはずなのに、蛇口をひねり、新鮮な水を注いでしまう。透明な水面が揺れ、数滴が床にこぼれた。それを拭き取ろうとして膝をついたとき、視界の端に、ソファの脚に絡まった一房の毛を見つけた。
少し赤みを帯びた、柔らかな茶色の毛。 それを指で拾い上げると、鼻腔の奥に、陽だまりで干した毛布のような、あの独特の匂いが微かに蘇った。
彼は、私の人生の「句読点」のような存在だった。 仕事に追われ、擦り切れて帰宅した夜も、彼は何も聞かずにただ隣に座った。私がため息をつけば、彼は大きな欠伸をして、私の膝に重たい頭を乗せた。その重みだけが、私が私であることを繋ぎ止めてくれていた。
玄関の壁には、まだリードが掛かったままだ。 革製のそれは、彼の首の形に馴染み、持ち手の部分は私の手の跡がついて黒ずんでいる。
夕暮れ時、私は独りで外に出た。 散歩コースだった河川敷へ向かう道。ポケットの中で、いつも持ち歩いていたビニール袋の衣擦れがしないことに、胸の奥がちりりと焼ける。 歩道橋の坂道にさしかかると、自然と歩幅が狭くなった。心臓が悪くなってからの彼は、ここでいつも立ち止まり、申し訳なさそうに私を見上げたからだ。
「大丈夫だよ」
無意識にこぼれた声が、風に流されて消えた。 振り返っても、そこには誰もいない。ただ、夕日に照らされた自分の影が、いつもより細長く、孤独に伸びているだけだった。
河川敷のベンチに座ると、隣の芝生に目を落とす。 彼はここが好きだった。草の匂いを嗅ぎ、世界中の情報を集めるかのように鼻を動かしていた。
ふと、自分の手のひらを見つめた。 最後の日、彼の鼓動がゆっくりと、雪が溶けるように静まっていくのを、私はこの手で感じていた。 あんなに小さくなってしまったのに、彼が逝った後に残された「空白」は、家中の空気を吸い込んでも足りないほどに巨大だった。
日が沈み、街灯が灯り始める。 立ち上がろうとした時、ふわりと足首に柔らかい何かが触れたような気がした。 それはただの風だったのかもしれない。あるいは、枯れ葉が舞っただけかもしれない。
けれど私は、確かに感じた。 私の歩幅に合わせて、ゆっくりと隣を歩く、目に見えない温かな気配を。
「……行こうか」
私は、もう手首にかかっていないリードの重みを思い出しながら、一歩を踏み出した。 彼が教えてくれたのは、愛することの喜びだけではない。 誰かを想い続けることで、独りであっても独りではないのだという、静かな強さだった。
家に帰り、玄関の扉を開ける。 「ただいま」と言う代わりに、私は深く息を吸い込んだ。 まだそこかしこに残る、彼がいた証。 それらを一つずつ抱きしめながら、私はこれから、彼がいない日常を、彼と共に生きていく。
台所の隅、新しく注がれた水が、月の光を反射して静かに揺れていた。